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親ガチャの裏にあるのは「甘え」か「SOS」か

もしくはもっと単純に、SNSを通じて、これまで目にすることがなかった「生活水準の異なる他者の暮らしぶり」が日常的な事象と並列して意識に飛び込んでくるようになってきた、という点を親ガチャ流行の背景として挙げてもいいかもしれない。この面を切り取って、「今の若者は他人と比較してばかり」と、親ガチャへの言及を一種の「甘え」や「努力しない言い訳」として非難する向きもある。

あるいは反対に、親ガチャへの言及を「正当な訴え」と解し、教育格差が個々人の主観的感覚として実感できるほどに広がっているのだと、環境的要因を指摘することもできる。この場合、親ガチャへの言及は一種の「SOS」であり、カジュアルな言葉の裏には重い現実が隠されていることになる。多くのメディアはこうした視点から論を展開しており、社会制度に由来する格差の是正や、個別的な支援の必要性を訴えかける記事も増えているようだ。

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もちろん、親ガチャという言葉を用いる人はさまざまであるから、「甘え」と判断されうるケースもあるだろうし、社会的な支援が必要なケースもあるだろう。しかし私にはこのどちらも、「親ガチャ」という言葉を用いる心性に対しての核心的な回答にはなっていないように思える。誰かが「結局親ガチャだよね」と口にするとき、その人は当然「いや、努力でどうとでもなるよ」と言われたいわけではないし、かといって多くの場合、「どうしたの? 何か手伝えることはない?」と言われたいわけでもないはずだ。

親ガチャという言葉が用いられる状況を大局的に見れば、それは「言い訳」でも「SOS」でもなく、むしろ「白旗」と考えるべきもののように思えてくる。親ガチャは人生を「ハードモード」や「クソゲー」などと表現するのと同じ心性から生じており、諦観とともに「もうそれでいいから、カンベンしてくれ」と、上昇の可能性を自ら放り投げる言葉なのではないか。

親ガチャは「不満の表出」なのか

親ガチャという言葉は今でこそ、逃れることのできない苦境の表現として用いられる例が増えているけれども、局所的なネットスラングとして用いられていた頃は単純に「恵まれた家庭に生まれた者への羨望」と、「自身がきらびやかな生を送ることができない由来の追認」のニュアンスを含むアイロニカルな自己卑下の表現であったように思う。

考えてみたいのは、ソーシャルゲームにおけるガチャの最低ランクは「コモン」や「ノーマル」であり、ハズレとされているのは「ありふれたもの」だという点である。尺度として「平凡」から「きわめて貴重」までのレイヤーしか含まれていないのだ。

これを素直に転用すれば、親ガチャという言葉は「生まれた段階で不利な境遇にあることに対する呪詛」というよりも、「SSRを引いた人間を、コモン(=モブキャラ)としての自分が羨む言葉」として受け取るのがもともとのニュアンスに即しているように思われる。

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正確に計測したわけではないが、Twitter上で「親ガチャ」が現在の意味で用いられはじめる2015年頃から3年ほどの用例を追ってみると、「親ガチャ失敗」など自身の恵まれない境遇を愚痴るツイートは2割に満たない印象で、半分以上は「親ガチャですべてが決まる」といった一般論であり、「不条理だがそういうものだし仕方がない」といったニュアンスが読み取れる。なお、その他は「親ガチャは当たりの部類だけど肝心の自分がふがいない」といった自虐ネタや、恵まれた環境にある他者を「親ガチャUR」と茶化すツイートなどが見られた。

すなわち多くの場合、親ガチャへの言及は「ヨソはヨソ、ウチはウチ」を子の立場から言いかえた程度のものであって、言い訳でもSOSでもなく、「あの人と比べても仕方がない、はじめから土俵が違うのだから」と、自己と他者の生きる世界に断絶を認めることで、比較の視点を無効化するという側面が強い。

ここに込められている皮肉はひとつの生存戦略であって、自身の生の前提条件を選ぶことができないという事実を「ガチャ」という言葉を通じて矮小なモデルに落とし込むことで、個々の状況を相対化しようというのである。そこにあるのは何かしらの是正措置を求める態度ではなくて、歪んだ現状に対するヒネクレた受け身のようなものだ。

これも一種の甘えだろうか? 私は少し違うと思う。繰り返すが、これは生存戦略であり、自身の生を意味づける行為の一環として位置づけられるように思えるのだ。

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