後ろ向きに飛ぶための翼は――市川沙央『ハンチバック』によせて

Educational Loungeで2年にわたり連載した小説「像に溺れる」作者でフリーライターの鹿間羊市さんが、日常の体験をもとに様々なことを考察していく月間コラム。
今回は芥川賞受賞作の市川沙央『ハンチバック』をテーマに思考が展開します。

鹿間 羊市(しかま よういち)
東京都多摩市出身。凡庸なエリートとしての道を歩むなか、ニーチェとの出会いが躓きの石となり、高校留年・大学中退と道を踏み外す。ハイデガー、レヴィナスの思想に傾倒し、現在はフリーの執筆家として活動中。衝動や受動性をテーマに、規定しえない自我の葛藤を描く。自身のnoteでも創作活動を行っている。Educational Loungeにて連載小説「像に溺れる」公開中(2022年10月完結)

市川沙央氏の『ハンチバック』を読んでから、どうにも原稿の調子が上がらない。そこに因果関係があるのかはわからないけれども、パソコンで文字を打ち込むのが怖く、自分の言葉がこの世界に意味を刻み込むことへの後ろめたさを感じる。手書きであれば少しは負い目が軽減されるので、とりあえずパソコンでざっくりとした流れだけを打ち込み、印刷したテキストをほとんどすべて書き換えている始末である。

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どうしてこうなったのかはわからない。暗黙のうちに健常性を前提する「読書文化のマチズモ」を告発する作品に触れながら、キーボード入力よりもさらなる身体的健常性を要するであろう手書きに立ち戻っているのだから、決して「作品を受容して自分のあり方を見つめ直そう」などと考えているわけでもない。なんというか、自分の内側から見知らぬ他人が自分を見つめているような、そういう奇妙な感覚が続いているのである。

『ハンチバック』は不気味な作品である。アイロニカルで軽妙な文体に誘われ読み進めていると、いつのまにか得体の知れない生き物の卵を腹に産みつけられているような感覚がある。それはあたかも目立たないイジメを看過するときのように、抑圧構造に対して無関心を装いつづけるうちに堆積していた罪悪感が拵えた卵である。この卵はおそらく孵化することはないのだが、しかしその殻を破って直視しえない何物かが生まれてくる可能性について、私はずっと煩悶としつづけなければならないように思える。

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とはいえこのようにウダウダ書き連ねていても、無為に時間が過ぎていくだけである。『ハンチバック』という作品に対して、私自身がどのように向き合いうるのかを曲がりなりにも見通すべく、いくつかの思想的形象を補助線に、私が同作をどう読んだのかを示してみたい。

なお、以下で私は「我々」「私たち」といった言葉によって、「障害者の抱える問題に触れずにきた健常者たち」を指示する。隠れた「健常者優位主義」を告発するこの作品に触れるにあたり、告発される側としての立場を明確にしなければならないと考えるからである。

「せむし」という差別用語をあえてテーマ化することの意義

さて、『ハンチバック』は「健常者にどう読まれるか」についてきわめて戦略的に書かれた小説である。構成的な部分についてはもちろんのこと、随所の言葉選びからもその意図を読みとることができる。ここでは、作中すべての用例においてタイトルの「ハンチバック」というルビが振られる「せむし」という言葉に注目したい。脊柱が過度に湾曲し、背中に虫が入っているかのような様を表す言葉であり、作中では主人公の釈華がみずからを卑下して「せむしの怪物」などと称する際に用いられる。

この言葉は現在、差別用語としてほとんど死語になっており、私自身、36年生きてきて日常会話のなかで耳にした覚えはほとんどない。このように社会から抹消された言葉を主題的に取りあげることに、どのような意味を読みとればよいのだろう。
差別的な言葉を社会からなくすことは、その言葉によって直接的に誰かが傷つく機会を減らすことにはなるかもしれないが、一方で現に生じている差別という現象そのものにフタをしてしまう面がある。「せむし」という言葉が人々から忘却されることによって、「せむし」と呼ばれていた人々の苦痛が世界から取り除かれるわけではなく、むしろその一方で、彼らに対して我々が抱きつづけてきた差別感情が隠蔽されるのである。言葉がなくなることによって、私たちはその言葉ともに振りかざしてきた自身の暴力性を忘れ、反対におのれの魂の善良さを信じ切れるようになってしまう。

『ハンチバック』において「せむし」という差別用語があえて用いられていることには、このような我々の「罪の忘却」に対する告発としての意味がある。差別用語のないクリーンな言語体系は、クリーンな世界の鏡像などではなく、マジョリティが目にしたくない現実を覆い隠し、その健常性、特権性を謳歌することを助長する装置なのである。

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「ベンヤミンの『せむしの小人』を補助線として」

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