ベンヤミンの「せむしの小人」を補助線として

ところでこのような「忘却された罪の告発」というモチーフは、ヴァルター・ベンヤミンの「せむしの小人」という表象にも見てとることができる。これはもともとドイツのとある童話に登場するキャラクターであり、子どもに小さなイタズラを繰り返したかと思えば、自身のために祈るよう懇願する、卑しく哀れな存在として描かれる。このせむしの小人について、ベンヤミンはまず少年時代を振り返るエッセイのなかで言及する。それはベンヤミンにとって、幼い自分が地下室を覗き見たあと、夢の中で暗いまなざしをこちらに向け返してくる存在として立ち現れ、のちには自身が経験するさまざまな失敗や不適合の背後にある存在として意識される。

ヴァルター・ベンヤミン

せむしの小人とは端的に、私たちの日常的な意識の淵に映り込んでいながら、しかし円滑な社会生活を送るうえで切り捨てられているものの表象である。現に存立している世界において「見過ごされている側面」は、子どもにとってうっすらとした負い目として立ち現れるけれども、生きていくなかで世界の意味連関を構築していくうちに、そうした側面に対する感覚を私たちは自覚的あるいは無自覚に閉ざしていく。

世界には「私のようではないもの」がみちあふれ、同時にそれは「私がそうであったかもしれないもの」でもある。それは羨望の対象になったり、あるいは疚しい安堵の種になったりしながら、そうした可能性に自身を重ね合わせるたびに、私たちは運命というものに対する途方もない諦念を感じる。けれども大人になるにつれ、その可能性の振れ幅は収束し、「私には関係のないことだから」と、とくだん意識せずに日常を送れるようになる。

意識されることのない差別構造の目立たない機軸は、おそらくこのような消極的な防衛機制のはたらきなのかもしれない。可能性の振れ幅にそのたび動揺していては、私たちはいまを繰り延べていくことができない。「私が彼/彼女のようであったらどうだったか」という想定に、いつも心を動かされているわけにはいかないのである。

広告

後ろ髪を引く力=かすかなメシア的な力

ところがこれに逆らって、失われてしまった可能性の振れ幅を蘇らせることを、ベンヤミンは「かすかなメシア的な力」と呼び、そこに「せむしの小人」の表象をあぶり絵のように滲ませる。すなわち、せむしの小人たちへの目配せを忘れていくのと並行して、我々が疚しい安堵とともに幾度となく見過ごしてきた抑圧構造、ないしは我々が直視を避けつつ拗くれた正当化を試みてきた自身の過誤、「なかったこと」にしなければやりおおせることのできなかった躓き、そういった暗がりのなかで切り捨てられていったものを掬い上げ、一切を「ありえたかもしれない可能性」として解き放つことを、彼なりのメシアニズムとして提示するのである。

ここで、ベンヤミンにおける救済とは「抑圧された過去の取り戻し」を意味し、それはあらゆる反実仮想が並存するような可能世界に向けて、一切の「ありえたかもしれないもの」を放ち入れるイメージとして描かれる。これを「せむしの小人」という思想的形象に託しているのは、その救済のトリガーが、私たち一人ひとりに潜在しているかもしれない「かすかなメシア的な力」のうちに――ひゅっと後ろ髪を引かれるあの引力のうちに――秘められているとベンヤミンが考えているからである。

次ページ
「『ハンチバック』において救済とはなにか」

広告

※本記事はプロモーションを含む場合があります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事