[ブックレビュー]堀江敏幸『雪沼とその周辺』
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雪沼とその周辺 (新潮文庫) [ 堀江敏幸 ]
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今でも思い出す景色がある。

21歳の頃,知人に紹介されてスコットランドのアイラ島を訪れた。目的はただ一つ。その1年ほど前から好んで飲むようになったアイラモルトの聖地巡礼だった。日本から直行便はなく,ロンドンのヒースローからグラスゴーを経由し,15時間程度のフライトを経て到着する島。眼前に広がるのは事前にインターネットや村上春樹『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』(新潮文庫)から得た情報に違わず,閑静で時間がゆったりと流れているような街。

この街で出会う人びと(といってもほとんどすれ違いすらしなかったけれど)は皆親切で,中でも毎日入り浸っていたパブのマスターは20歳そこそこの日本人が一人で来ているのだと知ると,穏やかな笑みを浮かべながらどこか誇らしげな表情で島での自分の人生について語ってくれた。毎日のように話をしたけれど,特に記憶に残っている言葉がある。

「あれから2年が経った。君はこの日々の中で多くの物を失っただろうが,同じように多くのものを得たはずだ。共に希望を抱き,熟慮し,信じようじゃないか。この2年間で何を失ったかを考えるのではなく,明日のために何ができるかを考えよう」

奇しくも訪れたのは2013年の3月11日前後。BBCで流れるあの日の映像を見ながら,日本からきた小さな若者に語ってくれた姿は今でも脳裡に焼き付いている。


舞台となっている雪沼とその周辺。この静かな街で暮らす人々によって生み出される様々な物語は,心温まるだけでなくどこか懐かしくも感じていた。それは何だったのか,その答えはアイラ島でのこの経験にあった。

2007年のセンター試験(本試験)での出題が記憶に残る「送り火」。初めて出会ったのは高校3年生の冬,センター試験の過去問を通してだった。当時「タイトルには必ず意味がある!」と信じて疑わなかった私は(その後すぐにそうでもないという現実を知ることになるけれど),この作品がなぜ「送り火」なのかが気になって仕方なかったのをよく覚えている。センター試験で抜粋されている箇所は「送り火」と無縁のように感じたから。

絹代さんと陽平さんの,22歳も離れた夫婦は13年前,最愛の一人息子を亡くす。自転車の大好きな由という男の子だった。大雨洪水警報の発令で学校が休みになった日,自転車を引いて増水した尾名川を見に行った由は,濁流に飲まれて命を落とてしまう。「あなたがぼんやりしているからよ、いっしょに家にいたのに、あなたがぼんやりしているからよ」と夫の陽平さんを責め,元気な姿の子供たちを見るのが辛くなり,外出しないようにと声をかけておけば良かったと後悔が募る絹代さん。

わたしはまるで、念のために生きてきたみたいなものだ。念ばかり押されて、念ばかり押して。押されない念があったら、お金を出してでも買いたい。押されなくてもいい念があったら、世界中を探しまわってでも手に入れたい。でも、あの日だけは、つまらないこだわりを棄てて、外にでちゃだめよと、それこそ念のために声をかけておけばよかった。

一見変わるところのない陽平さんも同じような思いだったであろう。冨田自転車店の冨田さんも同様に――

いまになって思うんです、あれをつけてあげてれば、暴風雨のなかで自転車を引いてもとりあえず明かりがあって、誰かが気づいたかもしれない、危ないから帰れと言ってくれたかもしれないって……。

法事のたびに繰り返される由の思い出話。十三回忌を迎えてもそれは変わらなかった。今となっては取り返しのつかないことに対し,それぞれがそれぞれの後悔を抱えながら日々を生きてきたのだ。

物語の最後,絹代さんは今まで旅先で集めてきたランプに火を灯すことを提案する。「これにみんな火を灯して、権現山から眺めましょうよ」と。それはまるで,あの日の由に持たせられなかったライトの代わりにするかのように。小学校二年生でその人生の幕を閉じた最愛の息子を偲ぶかのように。そして,自らの後悔を心に刻み,誓いへと昇華するかのように。

7年前のアイラ島で私が感じたのもこんな空気だった。海に囲まれた静かな街で,多かれ少なかれそれぞれがそれぞれの後悔を抱えながらも折り合いをつけながら日常を送っていたように感じた。これはもちろん21歳の世間知らずで斜に構えていた当時の私が抱いた感想にすぎない。とはいえ,誰しも多少はそうした思いを抱えながら生きているのではないかという思いは変わらない。私など今でも日々後悔の連続である。しかし,そんな後悔を抱え,それを何か別の形に昇華する経験の積み重ねこそが,ランプのごとくどこか寂しげで,どこか美しい内面の豊かさを育んでくれるような気もしないでもない。「送り火」は,そんな読後感を抱かせてくれた。


この「送り火」を含め,「スタンス・ドット」「イラクサの庭」「河岸段丘」「レンガを積む」「ピラニア」「緩斜面」の7作品が収録された『雪沼とその周辺』。時代から取り残された感のある雪沼で,それぞれがそれぞれに挫折や後悔,失意を抱えながら普通の暮らしを送っていく。それを堀江敏幸氏のまなざしが優しく包み込み,私たちのもとに心地よい響きを伴ってやってくる。異例の長さだったGWを終え,また「普通の暮らし」が戻ってくる。雪沼の人々のように,どこかぎこちなくも丁寧な日常を「普通に」過ごしていけたなら,案外それこそが幸福なのかもしれない。


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