[第4章]反西欧としての文明論と文学論——日本近現代文学作品詳説

反近代の系譜1

「反近代」という文学史的なタームについて「三好行雄」が述べている。

「反近代」ということばは、かならずしも普遍的な市民権をえているわけではない、。概念それ自体も曖昧である。ただ「反近代の系譜」をさぐる試みは日本近代史を裏から見ることになる。西欧化即近代化の過程がおのずと明らかにした〈近代化を拒む部分によって、わが国の近代文学固有の実質を逆に照らし出そうとする試みである

(三好行雄『日本文学の近代と反近代』)

この試みは大変重要な意味を持つ。

2章であげた森鷗外と坪内逍遥の『没理想論争』だが、鷗外はE・H・ハルトマンの観念論美学によって論を立て、逍遥にしても、シェークスピアを中心にした知識を前提にし、二葉亭四迷もロシア文学、ツルゲーネフやベリンスキーを下敷きにしていた。

近代化プログラムに反駁した「反近代」の人々

このような西洋を理念として日本の後進性を批判するという批評原理は、まさしく時代の要請であり、日本文学に限らず、日本社会全体を近代化していく指導原理そのものであった。

この近代化のプログラムに反駁した者たちが「反近代」として整理できる。斎藤緑雨の次のような鷗外への反駁がある。

シルレルなればとてハウフなればとて善き事は善き事なり悪き事は悪き事なり古今の大家に例少なからざるがゆゑに問はずといふの漁史は、大家のなしゝことは一も二もなく宜しとして世を挙げて然(さ)なきだに模倣の世たらしめんと欲するか

(「鷗外漁史の弁護説」)

これは緑雨の八つ当たりと言えるレベルだが、江戸文人の思想を継ぐ作家緑雨が近代化プログラムに関わった意義は大きい。

斎藤緑雨は十八歳の時、江戸戯作者の生き残りの仮名垣魯文のもとに入門している(明治十五年)。
戯作精神を基盤としつつ小説家として成功した緑雨の代表作は、『かくれんぼ』と『油地獄』がある。

 

これらは戯作趣味的な表現に、少しずつ口語文体が取り入れられていたが、あくまでも古い文章意識が維持されていた。

大丈夫当さに雄飛すべしと、入らざる智慧を超温に附けられたおかげには、鋤だの鍬だの見るも賤しい心地がせられ、水盃をもしかねない父母の手許を離れて、玉でもないものを東京へ琢磨きに出た当座は、定めて気に食はぬ五大州を改造するぐらゐの画策もあつたろうが゛
(『油地獄』冒頭)

主人公の目賀田貞之進を紹介するための、延々と続く冒頭の一節である。

これでも当時としては新しい口語文体であった。
しかし後漢書の英雄(超温)の立身をさりげなく修辞とするあたりが古典的である。

このように「反近代」の系譜として、斎藤緑雨にみられる「西洋化そのものに反発し、日本伝統に固執した」系譜がある。

しかし次に見ていく、第3章で扱った夏目漱石の方法の由来をこの「反近代」というテクニカルタームで見直した場合、「西洋化を指標とする日本の近代化にやむを得ない選択として受け入れながらも、その近代化のプログラム自体には批判的だった作家」という社会的、文明的側面からの夏目漱石像をここでまとめていく。

 

この像こそが、第3章の夏目漱石による「創作家的態度」の設定の由来をむしろ裏付けるのである。

反近代の系譜2


夏目漱石が明治四十四年八月十五日に行った第二回目の講演が、有名な「現代日本の開化」である。

これは漱石の思想の核心を示すものとして、とくに重要な意味を持っている。

日本は三十年前ニ覚メタリト云ウ然レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ其サメタルハ本当ノ覚メタルニアラズ狼狽シツ、アルナリ只、西欧カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナキナリ、文学モ政治モ商業モ皆然ラン日本ハ真ニ目ガ醒ネバダメダ                    (明治三十四年三月十六日 日記)

 

「現代日本の開化」に見る漱石の時代認識

「現代日本の開化」はこの十年前の感想から出発して、漱石がどこまで来たかを如実にする。

それははるかに苦く、重い真実を告げるのである。

「日本の開化」は「外からおつかぶさつた他の力で已むを得ず一種の形式を取る」という意味で「外発的」であり、「今迄内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしに其云ふ通りにしなければ立ち行かないといふ有様になつた」というのが、漱石の認識であった。

 

つまり、漱石は文明開化の外発性と、それゆえに軽佻浮薄に流れる同時代文明とをはげしく批判している。

日本の現代の開化を支配してゐる波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新らしい波が寄せる度に自分が其中で食客をして気兼をしてゐる様な気持ちになる。

しかし、この「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」との批判は、むしろ、「事実已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑つて行かなければならない」と説く漱石の認識は、冷徹である。

「滑るまいと思って踏張」れば「一敗また起つ能わざるの神経衰弱に罹って、気息奄々として今や路傍に呻吟しつゝあるは必然の結果として正に起るべき現象」だからである。

……吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされる為にたゞ上皮を滑つて行き、又滑るまいと思つて踏張る為に神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と云はんか誠に言語道断の窮状に陥つたものであります。

このように外発文明の告発に託して、漱石が語ったのは、西洋と触れてしまった日本人への鎮魂歌であった。

 

『三四郎』に描かれる文明批評

この文明批評は、明治四十一年に書かれた『三四郎』でも描かれている。

熊本の高等学校を卒業した青年、小川三四郎が大学へ入学するために上京する。
その戊面で列車に乗り合わせた髭の男、のちの広田先生から、日露戦争の勝利に浮かれた日本人への痛烈な批判聞かされる場面がある。

……今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、「ああ美しい」と小声に言って、すぐに生欠伸(なまあくび)をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、「どうも西洋人は美しいですね」と言った。
三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれがほんいちの名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。……この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常にきょうであったと悟った。

この「卑怯」に込められた意図が「現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」ことの自覚と、それによる「神経衰弱」の覚悟と憂いが読み取れる。

この思いが漱石の「高踏派」「余裕派」と呼ばれる所以となる「創作家の態度」につながると考えるのである。

 

『こころ』で構造化される「創作家の態度」

さらにこの態度を小説の構造世界で具現化したのが、大正三年の四月から八月にかけて連載された『こころ』がある。

この作品こそ、「今迄内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしに其云ふ通りにしなければ立ち行かないといふ有様になつた」結果「神経衰弱」に陥った日本人を葬るための作品である。

Kとともに自裁したのは、いうまでもなく明治天皇の崩御に動揺し、乃木将軍の殉死に感動する漱石自身である。

 

明治の終焉とともに二人の自死者を描くこの小説は、「語り手」として「私」という新世代を設定し、漱石とは世代の違う「私」に対して遺書文中の「私」であり、新世代の「私」から「先生」と呼ばれる高踏的で謎に包まれた男を設定し、この男の謎を解明する形で遺書を書き遺し死んでいく。

遺書はまず、明治天皇の崩御によって、「明治の精神」が終わったと言う。
明治の精神とともに人となった自分が生きのびるのは「畢竟時勢遅れだ」とも言う。

新世代の「私」が代表する大正世代が明治の精神を決して理解しないだけでなく、むしろ冷淡な批判者となっていくことを「先生」は知っていた。この「明治の精神」への殉死に具現された〈無私〉の行為は、〈我執〉に満ちた西欧然とした新世代への痛烈な批判である。
ここにもう一つの「反近代」が見られたのである。

 

さらにこの新世代に位置づく石川啄木が『時代閉塞の現状』という作品で「文明開化の外発性と、それゆえに軽佻浮薄に流れる同時代文明」の「理想喪失の悲しみ」を語っている。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積(うっせき)してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的(てき)、自滅的傾向は、この理想(りそう)喪失(そうしつ)の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞(じだいへいそく)」の結果なのである。
(『時代閉塞の現状』明治四十三年)

 

おわりに——自然主義と反自然主義に見られる想実論

次章では、この漱石の次世代への遺言や石川啄木の悲しみを介して、さらに日露戦争後の「幻滅の悲哀(長谷川天渓)の瀰漫する時代状況下で、「理想(想)を喪失し現実(実)と対峙せざるをえない」文学者の「自然主義」を、そのまま浪漫主義から自然主義へと変化した国木田独歩と島崎藤村を軸に、その方法論をまとめていきたい。

一方でこれと安易に対比し、「反自然主義」とされる『白樺派』の一般の「理想主義、人間主義」という浪漫ではなく、現実との対峙の面を有島武郎を軸に方法論をまとめたい。

このことによって、後世の単純な二項対立図式では表現出来ない「大正期文学」版の止揚された「想実論」をまとめていく。

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