[第1章]日本近代文学黎明期の時代背景――日本近現代文学作品詳説

戯作文学の衰退と啓蒙思想の功罪

明治元年(1868年)の明治維新以後。現在にいたる時期を原則的には「近代」と呼ぶ。

確かに、維新による江戸幕藩体制の瓦解が、国家としての日本近代化の端緒であったことや、理念としての近代が、日本の開国を促す重要な衝撃を与えた西洋から学ばれたことは言うまでもない。明治維新は、東西の両異質文明の接触を伴ったことで、日本史上のどのような変革よりも衝撃的であった。

明治維新の影響と戯作文学

維新政府は旧制度の徹底した改革と、統一国家による民族の独立を目指し先進文明をとりいれて、近代国家制度と資本主義経済体制の育成を図った。鹿鳴館の舞踏会に見るような欧化政策の徹底によって、世をあげて文明開化の風潮におおわれた。

明治政府は欧米の近代化路線を採用することを決めた。しかしその際に真の意味で我が国を欧米化することが考えられたわけではなく、少なくとも社会構造や政府機関の組織、軍制や教育などの面での近代化が考えられていただけである。制度やインフラストラクチャーの面での近代化に過ぎず、西欧精神の面にまで視線が届いていたわけではなかった。つまり表面の近代化に過ぎず、精神の面では旧来の路線の上ですべてが考えられていたのである。

(阿部謹也「『教養』とは何か」)

文明開化という西洋化即近代化の方向自体、欧米の列強諸国と拮抗できる統一国家を実現するための至上命令として、明治の絶対主義政権が選択せざるを得なかった政治上のプログラムにすぎなかった。いわば「上からの近代化」である。だから、日本近代は、文学や芸術などの、精神や美の領域に関わるプログラムは不在であったとしても仕方がなかった。文学創造の重要な前提となるジャーナリズムの成立も、まずは政治レベルから始まったのである。

そこで、維新以後のほぼ20年間は、江戸末期文芸の流れをくむ戯作が、仮名垣魯文らによって細々と受け継がれていた。

啓蒙思想

他方、蕃所調所(開成所)などの江戸幕府の開明政策に参与し、またそこから育ってきた知識人たちによる啓蒙活動が、先進文明の移植を急ぐ時代の趨勢に応じて活発に展開された。明六社や福沢諭吉らの実学尊重に対して、中村正直や同志社の新島襄らが精神面での啓蒙を担当した。彼らの思想構造には、キリスト教精神と儒学ないし武士道との重層が顕著にみられ、明治文学の思想的原型の一つとなった。

「啓蒙」とは、英語のenlightenment`仏語のilluminationの訳語で、世界史的概念では、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパを風靡した思想運動の理念を指し、中世の闇、蒙を理性の光で照らして近代社会の実現を求める市民精神がその基本になっていた。

日本における啓蒙思想

日本では明治初年代、誕生したばかりの新政府が幕藩体制の遺制の一掃に重点を置いていた時期に現れた一群の思想家たちのイデオロギー活動が「啓蒙活動」と呼ばれている。

具体的には福沢諭吉、西周、中村正直ら「明六社」の結成に加わった洋学者たちがその中心的な担い手であった。彼らは下級武士から身を起こし、洋学の才によって徳川幕府で登用されて活躍した者が多かった。維新後は、福沢以外はいずれも新政府の官僚に就き、開明派官僚として行政に参画したことや幕末期にすでに西洋的近代に対する進んだ理解を持っていたという共通点があった。ここに彼らによる啓蒙活動の正負両面の結果へとつながる背景があった。

啓蒙思想の正の側面

正の側面は、当然西洋文明の「精神」が彼らによって民衆の前に示されたことである。西洋的理解における科学技術や物質文明以上にその精神に注目していた彼らは、独立した人格としての個人の尊重、人間の自由と平等といった近代思想の原理の紹介と普及を啓蒙活動の中心に置いたのである。それは歴史的な激動期の中で新しい思想様式を求めていた多くの日本人に力強い指針を与えた。福沢の『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり」や、中村の『西国立志編』の「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」という言葉が流行する状況を生み出した。

啓蒙思想の負の側面

しかし、負の側面としては、民衆を一方的な啓蒙対象としてのみとらえて常に上から見下ろす視点に立っていたことである。

「明六雑誌」創刊号掲載の文章に記された「諸先生ノ卓識、高論ヲ以テ、愚蒙ノ目ヲ覚シ」という発想が彼らに共通していた。だから、「官」「民」が対立抗争を理念の中に想定できなかった啓蒙運動は、民撰議院設立要求運動とともに急速に解体していった。国会開設要求の論理は、天賦人権論に立脚してあり、近代精神の制度的実現を目指す啓蒙思想家たちと対立しないはずなのに、彼らは否定的な態度を示した。彼らの「選民意識」が「天賦人権論」を容認できなかったのかもしれない。

 

戯作文学

一方戯作は、江戸以来の古いジャンルであるが、幕末にはすでに衰退の極に達していた。為永春水、柳亭種彦、滝沢馬琴らを擁した家斉時代の文壇も、天保の改革でほぼ完全に崩壊し、以後は「勧善懲悪」の装飾をまといつつ、ただ先行作品や歌舞伎の翻案やパロディ化を繰り返すだけだった。維新後も福沢などの啓蒙家たちによる実用実学尊重の傾向に押しつぶされ続けていた。

しかし、仮名垣魯文は、こうした新しい社会の動きを、江戸の町人の日常生活に取材し、主として会話を通じて人物の言動の滑稽さを描写した滑稽本の手法でとらえることで人気作家になった。福沢諭吉の『西洋事情』『西洋旅案内』と十返舎一九『東海道中膝栗毛』を粉本にした『西洋道中膝栗毛』を創り出し、牛鍋屋の繁盛と式亭三馬『浮世風呂』から『安愚楽鍋』を創り出したのである。

戯作者らしい新時代への対応であり、パロディの対象に、啓蒙家の著作や、新時代の風俗そのものを選んだのである。しかし、明治五年教部省の「三条の教憲」によって民衆の思想的啓蒙に乗り出し、一変した。戯作者たちは魯文らを代表として『著作道書キ上ゲ』を提出して、「作風を一変する」ことを誓い、荒唐無稽な娯楽性から転じて自ら「不識者ヲ導ク」啓蒙家となったのである。その後庶民を読者とする「新聞」で戯作風の作品を書いたが、あくまで、実用主義の実録だったため、政治性を帯び、新しい文学の先駆とはならなかった。

 

翻訳小説が日本近代文学成立に与えた大きな影響

翻訳小説は、日本近代文学成立に与えた影響力は大きい。例えば内田露庵は次のように述べている。

近く我が現代文学を見るも畢竟外国分子の注入にして一時殆んど衰亡の徴しありし小説界を振起せしめたるは世人皆経国美談と書生気質に帰すれど余は以て見れば是れ近因にしてその遠因は花柳春話なり。(略)今より十年前文学の嗜味殆んど欠乏せし時代に翻訳の労を取られし功徳は長く文学史上に没すべからざるなり。

(『翻訳熱流行を望む』「国民新聞」明治23年7月13、14日)

魯庵が言うとおり、明治前半の翻訳は、訳者の自由な解釈を施した、いわゆる豪傑訳であり、大変ズレた翻訳であった。
この豪傑訳の時代は、外国文化に対する異和感を欠落させて翻訳していた。

その後、「良心」的な翻訳への転換は、森田思軒や二葉亭四迷の登場によって行われた。その転換は、原文の表現にこだわり、原文の言葉をそのままに日本語で表現しようとするところから出発した。この試みがロシア文学に造詣の深い四迷による『浮雲』で結実し、言文一致作品として試行された。しかし新しい可能性を示したまま未完で終わってしまった。

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