[第3章]漱石の文学論――日本近現代文学作品詳説

【ポイント】漱石において止揚された「想実論」

漱石の『文学論』で結実をみる「想実論」の系譜

2章末でも述べたとおり、「想実論」の系譜は、「夏目漱石」によって一つの結実をみる。

それが、『文学論』(明治三六年九月~三八年七月講義)である。

凡そ文学的な内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す。

と漱石は、フランス文学者テオデュール・リボー(一八三九~一九一六)の説に基づきながら「英文学」を論じた。

しかし、漱石は先の『文学論』の出版時に加筆した序で「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」と述べ、

わからない英文学は一切の文学書を行李の底に収めて、心理的、社会的に文学の実体をきはめようと決心した

と述べたこの言葉に、東西文化の異質性の痛ましいほどの痛感がある。

ここにただ西洋文学を模範としただけだけだった逍遥や四迷との大きな違いがあった。

 

日本的道徳儒学の標榜

さらに、漱石は日本的道徳儒学を標榜し、後年歴史小説や伝記小説を書いた森鷗外とも一線を画していた。

 

漱石は、明治二六年六月の論文で「老子の哲学」を書き、老子を論理的に分析し、プラグマティックな立場から解釈し、批判している。

非組織的、非体系的な東洋哲学を西洋の論理的な哲学体系に対照化してその趣旨をつかむことは、当時の志向であったが、漱石は、老子の「道」の体(無為)と、「道」の用(万物の法)との両面の矛盾を指摘している。

 

「漱石が観念論哲学によって訓練され、後年プラグマティズムに近づいた」(吉田精一『自然主義の研究』)ことは、「文芸の哲学的基礎」(明治四〇年四月)や「創作家の態度」(明治四一年二月)で明らかである。

風俗でも習慣でも、情操でも、西洋の歴史にあらわれたもの丈が風俗と習慣と情操であって、外に風俗も習慣も情操もないとは申されない。又西洋人が自己の歴史で幾多の変遷を経て今日に至つた最後の到着点が必ずしも標準にはならない(彼等には標準であろうが)。ことに文学に在つてはさうは参りません。(中略)こゝに申す事は歴史に関係はありますが歴史の発展とは左程交渉はない様に思はれます。即ち作物を区別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本として成り立つた某々主義を以てする代りに、古今東西に渉つてあてはまる様に、作家も時代も離れて、作物の上にのみあらはれた特性を以てする事であります。既に時代を離れ、作家を離れ、作物の上にのみあらはれた特性を以てすると云ふ以上は、作物の形式と題目とに因つて分つより外に致し方がありません。

(「創作家の態度」)

この「作物の上にのみあらはれた特性を以てする」とするのがプラグマティズムである。

このように漱石は、歴史主義に潜む西欧中心主義や歴史主義、さらに歴史を連続的必然的とみる観念に異議を提出したのである。

 

日本的道徳儒学の標榜

すでに先の『文学論 序』で漱石は、「文学は如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」していた。この漱石の「歴史化」への態度に対する見解がある。

漱石が拒絶したのは、西欧の自己同一性(アイデンティティ)である。彼の考えでは、そこには「とりかえ」可能な、組みかえ可能な構造がある。たまたま選びとられた一つの構造が「普遍的なもの」とみなされたとき、歴史は必然的でなものにならざるをえない。漱石は西洋文学に対して日本文学を立て、その相対性を主張しているのではない。彼にとっては、日本の文学のアイデンティティもまた疑わしい。しかし、このような組みかえ可能な構造を見出すことは、ただちに、なぜ歴史はこうであってああでないのか、私はなぜここにいてあそこにいないのか(パスカル)という疑いをよびおこす。(中略)漱石の疑問は、なぜ自分はここにいてあそこにいないのかというところにあった。おそらくこうした疑問の上に彼の創作活動がある。理論に厭きたから創作に移行したのではない。創作そのものが彼の理論から派生するのだ。彼は理論的であるほかに、すなわち「文学」対して距離を持つほかに存立するすべがなかったのである。

(柄谷行人『日本近代文学の起源』一九七八年)

幼児期を養子で過ごし、アイデンテイティが希薄なままな漱石自身や、近代化して間も無く、近代的な個人も不在の日本には、『想実』の両方、『理論と内容』が、『近代的理想』と『近代的現実』も不在であり、その精神性だけを強調する理論家への異議申し立ての『文学論』だったのである。

この空虚な文学状況において、漱石は、文学の「風景の発見」を果たすと論じるのが、引用した柄谷行人の意見である。
つまり、「表現すべきものは、自然なのか、思想なのか」という相違が生まれていく。

 

人生相渉論争

この漱石の二面性を漱石より約二〇年早く二者で分かれて論争した「人生相渉論争」(明治二六年)がある。

「文学は事業であり、「人生に相渉ら」ぬ美文は無意味であると述べた山路愛山と、文学は実世界の成功を目的とせず、想世界にある「微妙なる自然」を表現すべきだと述べた北村透谷の論争である。

 

また、一方で近代化と西洋化の結果、近代以前の伝統を否定してしまい、「表現すべきアイデンテイティ」の喪失を反省し、創作した『擬古典派』の系譜もある。

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