#15 内面と世界の間の通路――像に溺れる

自宅の最寄り駅の古本屋で、法律関係の本を探してみることにした。

ぼくは普段、自主的に本を読むことがなかった。
現代文の教科書に載っている文章や、模試などで出会う文章は集中して読めるのだけれど、本屋や図書館で無数の書籍を前にすると、そこから自分にとって価値のあるものを選べる気がまったくせず、結局何も手に取ることなくその場を後にしてしまう。
そのたびに少し、特定の何かに関心を持てずにいることに対して、負い目のようなものを感じる。

 

この通りには古本屋がいくつもあって、どれも規模は小さなものだから、きっとそれぞれ強みとするジャンルがあるのだと思う。
それはおそらく店主の趣向というか、長年の読書経験とか人脈とか、そういう替えのきかないものに由来する専門性であって、それが店の「味」となって表出するのだろう。
何かに傾倒することで醸成される深みのようなものをぼくは羨ましく思い、そういう「味」のある人間と触れることに劣等感を抱くのでもあった。
まったく専門が異なる店に入って店主から嘲りや呆れの表情を見せられたとしたら、ぼくはしばらく立ち直れないだろうと思う。

ヤナガワサンから受けるダメージは異なる世界に触れたことに起因するものだけれども、こと「勉強」にかかわるフィールドで与えられるダメージは別種の深刻さを持つだろう。
そのためぼくは慎重に店を選んだ。
洋書やグラフィカルな本が多い店を避け、大学のテキストを多く扱っているところに入ってみることにした。

その店の建物は比較的新しく、古本の匂いも薄いように感じられた。
「味」のある店は一つひとつの本の圧のようなものが内装にも染みついているように感じるけれど、この店はチェーンの書店とそう変わるところがないように思えた。
なんとなく、ぼくはその店がぼくの部屋に似ていると思った。

きっとこの店は単純に、近くの大学の学生が不要になったテキストを買い取り、次年度その授業を履修する学生に売る、という需給関係によって成り立っているのだと思う。

店内を探ると、法学系のテキストが並んだ一角に、「法学入門」という本が積み上げられている。
法学部に入った学生が共通して使うテキストであるらしい。
中を開くと、ぼくにも理解できそうな文章で書かれている。
高校一年生で、有名大学の法学部生が使うテキストを理解する、というのはぼくの優越感情をくすぐった。
法律そのものへの関心を深めることができるかはわからなかったけれども、ぼくはそれを買うことに決めた。

 

レジに座っているのは大学生くらいの女性だった。
たぶんアルバイトなのだろう。
照明と本棚の配置で、レジの奥はほの暗く、そのせいか彼女自身も影のある人間のように見える。
ぼくの差し出した本を受け取り、光のない目でぼくの制服をちらと見やって、つぶやくように彼女は言った。

「朋英高校?」

鼓膜に吸い付くような声だった。
年上の女性から予想外に関心を向けられたこともあり、ぼくは高揚と動揺を隠せないまま答える。

「あ、はい、一年生です」
「高一で、法律に興味あるんだ?」

照明のあたらないところから、かすかに好奇の色を含んだ声を投げかけてくる彼女が、なんだか酸いも甘いもかみ分けた女性のように思えてくる。

「えっと、ちょっと気になって……言葉が現実を縛ってるって、面白いなって……」

ぼくは彼女に気に入られたいと思っていた。
自分をよく見せようとしている自分に気づき、その下心も彼女に見透かされている気がして、一音一音発するたびに羞恥の念が膨らんでいく。

「すごいね、素敵な視点。弁護士になりたいとかじゃないんだ」

素敵、という言葉を臆面もなく発する人に初めて出会った気がして、少しだけ冷静な警戒心が戻ってくる。
きっと仕事が暇だから、気まぐれに戯れてみただけのことだ。

「はい、将来のことはまだよくわからないです」
「そうだよね、私も大学三年だけどわからないもん。でも、何かに興味を持てるって羨ましい」

法律の本を買うだけで、これだけ認められることがあるだろうか。
彼女の目には、「法律に主体的な関心を抱きはじめた高校生」という像が映っているのかもしれない。
ぼくはただ、ぼくの内面と世界の間の通路を探しているだけなのに。

「興味が続けばいいなと思います」

ぼくは千円札をレジに置いた。

「そうだね。その本が気に入ったらまたおいで。私も一応法学部だから、色々お薦めもできるし。はい、お釣り」
「ありがとうございます。読んでみます」
「じゃあ、またね」

目尻に妖しい含みをもたせた微笑み。
特別人を惹きつける容姿ではないけれど、きっと彼女は恋愛の相手に困ることはないのだろう。
ぼくはなぜだか、見知らぬ相手に嫉妬しているようなのだった。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像
#14 抽象と具体の接点
#15 内面と世界の間の通路

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