#1「適応」の行方——像に溺れる

両岸の護岸ブロックによって窮屈な軌道を強いられたその川は、固有の名前を誰に意識されるでもなく、地面が生まれつき備えた宿命的な皺のように、物言うことなくその地を二つに分けている。駅から続く商店街が、その細く浅い川を境に途切れ、向こう岸にはコンクリートの無骨さを隠そうともしない建物と、広大な空き地が並んでいる。

橋の正面に位置するその建物は、装飾を排している点では刑務所や病院なんかと変わるところがないはずなのだけれど、なぜだかいかにも自分は学校であるという顔をしている。シャープペンの炭素とかチョークの炭酸カルシウムとかが、もしかすると目には見えない粒子のレベルで、建物の周辺に漂っているのかもしれない。
それは脱臭機から生成されたイオンのように、混沌とした若い魂の、発芽しようとする個性の種子に吸着し、有害物質を取り除くはたらきをもっている。

そんな中を、朝の日射しに体を慣らしていくように緩慢な動きで橋を渡っていく制服たちの流れに混じり、ぼくは夏休み明けの、なんだか他人行儀な校舎に向かう。

川にさしかかったとき、夏に蒸された下水の臭いがむっと立ち込め、腐敗の分子に全身が侵されていく感じがした。エアコンの無機的な涼やかさに順応しきっていた胃袋が突発的な収縮を起こし、反射的に口元を抑えた左の掌に、生々しく不快な感触が伝わる。
開いた掌の上にあったのは吐瀉物ではなく、黒いデメキンの死骸——臭気によって引きずり出された、幼い頃の記憶だった。

金魚鉢から掬い上げた死骸を、ぼくはじっと見つめている。ぶよぶよとした体表の、今にも腐り落ちそうな感触が、生ぬるく手に伝わってくる。
素手で触れたことを後悔する一方で、これでいい、自分にはこれがふさわしい、そう感じている自分がいる。

それはぼくにとって特別なデメキンだった。
金魚鉢のなか、縁日でとった二匹の金魚に交じり、優美な尾ひれを靡かせるその姿に、ぼくは自分もそのように際立った存在でありたいと願った。

けれども、三日と経たないうちに、デメキンは二匹の金魚に淘汰され、逆さになって浮かんでいた。
だらんとふやけた肉の塊は、使い古したスポンジのように、形状を保つ力の一切を剥奪され、元通りにしえない何かを漏出させていた。それはぼくがはじめて、明確に意識した死の形だった。

「適応できなかったか」と、スーツ姿の父が言った。出張に向かう朝だった。

ぼくは父の口にした、適応という言葉を憎んだ。特別なものが凡庸なものに排除されるなど、理に適っていないと思った。
不条理に対して生じた怒りと失望、虚無感が、未分化なまま噴出しそうで、けれどもその捌け口をどこに求めればいいかわからない。ともかく自分が、何かを罰さなくてはいけないし、何かに罰されなくてはいけないということだけが、確かな衝動として渦巻いていた。
その衝動は、死骸を素手で掴むという行為として形になった。

ぬめついた感触が皮膚になじみ、得体の知れない粘液が境界をあやふやにする。デメキンの死骸が、掌と一体化した巨大な腫瘍のように映る。それはそのうちに全身に転移し、ぼくの存在をまるごと腐らせるように思われた。

優美なデメキンを醜い死骸へと変貌させたもの。それと同種の力は、いつでもぼくを蝕みうる。

適応しなければならない。淘汰の不条理に飲み込まれないよう、環境に最適化された個体でいなければならない。


夏休み明けの教室では、久々に稼働した冷房の埃っぽい臭いのなかで、「抜け駆け」をめぐる相互のチェックが繰り広げられている。外見の変化、旅行、アルバイト、恋愛……同じグループの者が、別のところに行ってはいないか。
各々のグループがそれぞれの方法で、確認作業を進めている。

ぼくの左手にはまだ、ぬめつく感触が残っている。
淘汰すべき者を、見定めようとする眼差し。金魚鉢のなかで、デメキンはこのような視線を浴びたのだろうか。

生徒が揃うにつれて、単なる四角い空間が教室としての表情を取り戻していく。ぼくたちとともに、夏の間この場を離れていた見えないルール——ぼくらが次第に思い出していく相互の関係性と同時に、一学期に形成された暗黙の了解の数々が、再びインストールされていく。

進学校の教室は、約束事の共有によって同質性を担保された空間だ。
ぼくたちはみな、社会の上位であるために何を信じなくてはいけないかを知っている。ぼくたちを選り分ける基準について、ぼくたちは自ら了解しているのであり、それぞれの合意がこの空間を進学校の教室たらしめている。

基準から逸脱した者は、敷かれたレールから脱落していくことに決まっている。誰が決めたわけでもなく、おのずとそうなるようにできている。髪を染める生徒、派手な化粧をする生徒、制服を着崩す生徒——空間の同質性に耐えられない者は、環境から見放されるように、そこでの居場所を失っていく。

金魚鉢に浮かんだ黒いデメキンの、逆さになった死骸の下で、二匹の金魚は素知らぬ顔で泳いでいた。自分たちが作り出した同質性が、デメキンを窒息させたことなど意に介さぬように。


[連載小説]像に溺れる
#0 像に溺れる
#1「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況

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