#106 正義の向かう先――像に溺れる【第5章】

――なんでアイツが?

急に目の前に飛び出してきた過去。
コーウの方に向かわなければいけない意識が、後ろの方に引っ張られ、どうにもよくない予感がする。

正直、あの時間は悪くなかった。
特別楽しいわけでもなかったけど、縛られないだけでありがたかった。
普通に、そのままの自分を受け入れられる感じがした。

だから忘れようと思っていた。
都合のいいデータだけ残して、リセットなんてできやしない。
気まぐれに顔を出す「普通」の裏には、あまりに多くの異常があって、私はそのすべてに納得がいかなかった。
でも、なぜ今、私の頭はぐるぐる混乱しているのだろう。

コーウを抱いた僧たちが、もう林を抜けようとしている。
ヨネザワの歩くペースが一気に上がる。
ほんとうにこれでいいのか?
これまでの足取りを確認しようと思ったときにはもう、一切が動き出してしまっている。

「どうすんの」
無茶な行動に出ないよう、釘を刺すつもりで言った。
しかしヨネザワの反応は真逆だった。
「もう、出たとこ勝負だな」
そう言って、ヨネザワはすっと息を吸い込み、「おい」とバカでかい声を響かせた。

一斉に、五人の僧がこちらを振り向く。
もう戻れない。
いつもこうだ。
考えなく動くから、気づけば「なるようにしかならない」の空洞に放り込まれている。

しかし、みな警戒の表情を浮かべるなか、コーウを抱いた紫のヤツだけ、なんだか意外そうな顔をしていた。

「お変わりありませんね。10年以上経ちますか? しかし残念ですが、大願さまのお目にかからせることはできません」
「あんなのはどうでもいい。用があんのはお前だけだ。その赤ん坊、こっちに寄こせ」

知り合い?
交渉の余地がありそうなのに、ヨネザワはもう強行体制だ。
しかし、凄むヨネザワをいなすように、向こうは悠然と笑みを浮かべている。

「血を分けた兄弟に、ずいぶん淡泊ですね」
「血なんてもんは、呪いにしかなんねぇんだよ。お前らみたいに小狡い奴ほど、そいつを上手く利用する」

話がよく見えない。
ヨネザワは大事なことをいつも話さない。
大事なことは、ヨネザワの嫌いな過去から作られるものだからだ。

「兄弟? 教祖と? 聞いてないんだけど」
「お前は黙ってろ。そんで、そのガキだ。悪いこと言わねぇから、こっちに渡しな」

頑なに過去を話そうとしない。
私も昔のことを話すのは好きじゃない。
でも、それでいいのか?
自分のなかにだけ押し込めた過去は、そのうち腐って心の全体を侵蝕していく。
そんな気がする。

紫の僧は笑みを崩さない。

「この子は、いわば世界の結び目になるのですよ。世間の不浄を引き受けることで、この子は聖化される。そして、彼に罪を代理させたことへの負い目が、私たちを固く結びつける。あなたも、罪による結束という点で、大願さまと思いを共にしていたはずです」

罪による結束。
今と真逆じゃん。
私たちをつないでいるのは、いまここにある現在だけだ。
現在しかないから、つながっていられた。
でも、本当にそれでいいのか?

「昔のことなんか聞いてねぇんだよ。というか、お前らに拒否権はないの。さっさと渡した方が、お前らのためにもなる」
「そんな話が通ると思いますか?」
「もうこの教団は泥船なんだよ。薬も、人身売買も、バッチリ押さえてある」
「まさかそれが脅しになると? あなたにどう映ろうと、私たちは法に則って活動しています。公安にでも、週刊誌にでも、好きに売ればいいでしょう」

薄ら笑いが能面のように張り付いている。
しかし、出てくる言葉がなんだか世俗じみてきている。

「近いうち……そうだな、三日後だ。お前らは後ろ盾を失うことになる。今すぐそいつを置いて、教団から足を洗うのが身のためだ」
「さすが、お上手だ。血は争えませんね。ですがさっきから、話に何の具体性もない」
「……一月前、光浄連のトップが死んだだろ。長男がその椅子に座ったな。お前らのトップとは旧知だから、そのときは都合がよかったろう。でもな、血は呪いだよ。こうなった時に長男を失脚させようと、ずっと動いてきた連中がいるんだよ」

ヨネザワの揺さぶりに、全員の表情が変わる。
黄色の四人がうっすら不安の色を滲ませ、紫のヤツは少し面倒そうな顔をしていた。

ヨネザワが正確な情報を話しているのかはわからなかった。
おそらく、大半がハッタリなのかもしれない。
大義のための騙し討ち。
その大義の中身を、私はよく知らない。
これでいいのか?
意識の裏で、ずっと誰かが囁きつづけている。

「お前ら、ツイてるよ。たまたまそのガキを運んで、泥船から逃げるチャンスを得られたんだからな。神に愛されてるんじゃないか?」

ヨネザワの顔がいよいよ悪役めいてくる。
どっちが正しいかなんて、実際のところ大した問題じゃない。
これでいいのか?

――結局、私自身が選んだ道かどうか、それだけが問題だ。
どうだろう、私は、ほかのあらゆる時点の私に向かって、今の私を誇れるだろうか?

紫のヤツが何かを口に出そうとした瞬間だった。
視界の外から男が飛び出してきて、がしっと紫の胴を押さえつけた。

今だ。
コーウだ。
あいまいに輝く未来の像が過った。
私の正義の一切は、いま、コーウに対してだけ向けられなければならない。


[連載小説]像に溺れる

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