連載小説「像に溺れる」

海に着くまで、ヤナガワサンは自分について、あるいは親について、とても多くのことを語った。
それらは形のうえでは波瀾万丈なものだったけれども、ヤナガワサンの語り口はそれをあまり感じさせなかった。

幼少期に経験した父の失踪。
父がジミ・ヘンドリックスに憧れミュージシャンを目指していたが、現実には日雇いの仕事を転々とし、まったく芽が出る兆しもなかったらしいこと。
20代半ばでアルコール中毒になり、27歳のとき、当時5歳のヤナガワサンのもとから忽然と姿を消したこと。
失踪した時の年齢が、ジミ・ヘンドリックスの亡くなった歳と同じだったので、ヤナガワサンの母は父が死んでしまったものと思い込んでいるらしい。
ヤナガワサンはつまらなそうに、けれども確信のある様子で「逃げただけだよ、どうせ生きてんだろ」と言っていた。

それからヤナガワサンの母は他の男性との交際を繰り返し、その間ヤナガワサンは彼女の言う「パパ候補」と、同じ屋根の下で暮らすこともあったし、そうでないこともあった。
彼らは多くの場合ヤナガワサンとの関係構築に積極的に取り組んだが、それがかえって母の疑心暗鬼を引き起こし、そもそもの恋愛関係が破綻するのがお決まりのパターンだった。

「私に嫉妬してんの。不安で何も見えなくなってんだよ。そのくせ、私のことを特別だと思いたいんだ。私はあの人じゃないし、あの人はジミヘンじゃないのに」

ヤナガワサンの母の心情を、ぼくはうまく推し量ることができなかった。
結局の所、失踪した夫に心を占められているということだろうか?
自分だけが確信している彼の才覚を、ヤナガワサンのうちに見出そうとしているのだろうか。
しかしそういう、ヤナガワサンへの特別視が同時に、新しい関係にとっての障壁になっている……。

店の看板に、海沿いの街の名前が見える。
道は平坦で、日は傾いているのにいやに明るい。
まだ見えない海の方から、反射した太陽光が拡散して街を包んでしまっているみたいだった。

ヤナガワサンの母が、ヤナガワサンに望む像。
それは複雑に捻れて歪み、淀んでしまっている。
父の存在が、ぶ厚いフィルターになって像を屈折させてしまう。

「お父さん、探そうと思わないの?」
デリカシーのない質問だったが、ヤナガワサンはとりたてて気にしないだろうと思った。
が、ヤナガワサンは眉間に皺を寄せ、少し真剣な表情になる。

「それ、誰か得するか? まぁ見つかりゃ、ママの変な思い込みはなくなんのか? わかんねぇわ、見つけても逃げられんのがオチじゃね? 捨てた女と娘のとこ戻ろうと思うかね?」

返ってきた質問の束に面食らう。
ヤナガワサンにとっても、それは整理できていないところなのだ。
やすやすと聞くべきようなことではなかった。

釣具店が見える。
潮のにおいが、向こうの方から漂ってきていた。

「もう近いな。つーかなんで海なんだっけ?」
打って変わって、とぼけた表情を浮かべている。
話の脈絡を、わざとなくそうとしているみたいに。
ヤナガワサンの像が、煙に巻かれていく感じがする。
近づけそうで、どこまでも遠い。

住宅地を抜けると、海岸線に沿って東西に走る幹線道路にぶつかった。
うっすら見える水平線から、曇った空が濁流のように勢いよく飛び出している。
パンドラの箱が開かれた時も、きっとこういう感じだったのだろうか。

道路を渡ると、海岸との間に古い平屋建ての住宅がいくつか並び、トタン屋根の赤錆が目立つ。
それらは海辺の街の、味のある風景としてぼくに映る。
けれども一方で、屋根の腐食に悩まされる住人の生活が現実としてあるのだと思った。
見ることは無責任だ。
都合のいい像のうちに、他人を押し込めてしまう。
顔も言葉も持っている人間を、変化することのないイメージのうちに。

ヤナガワサンの錆の部分を、ぼくは勝手に憧れの対象としていたのかもしれない。
傍から「その人らしさ」と思われているものが、本人にとっては何より切り離したい腐食に過ぎなかったりする。

ヤナガワサンは何も言わず、海岸への道を下りていく。
眼下に広がる冬の海は、傾き衰えた太陽光を鈍く反射している。
ヤナガワサンの小さい背中。
くすんだ光景のなか、しなやかなに動くその背中だけが、鮮明な輪郭を刻んでいた。

気づけばぼくはスマホを取り出し、それをフィルターに収めていた。
シャッターの音に振り返ったヤナガワサンは、不思議そうな表情を浮かべている。

「ごめん、なんか絵になるなって」
「写真とか久しぶりだわ。魂は抜くなよ」

撮った写真を見返す。
夕焼けの海を背景にした、物憂げな背中。
それは美しい像だった。
けれどもそこに、ヤナガワサンの魂は映り込んでいるのだろうか?


[連載小説]像に溺れる

第1
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 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4
  • #62  銹像
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