#26 揺るがされないゲージ――像に溺れる

こちらには目もくれずにタバコ部屋に向かうヤナガワサンの背後で、遠藤はあからさまにニヤけた顔を浮かべている。
白沢はそれまでとは打って変わって、血の温度を感じさせない、鉄仮面のような表情だ。
肩に力が入るのを感じる。

一瞬、互いの出方を窺うような間があって、先制攻撃を仕掛けたのは遠藤だった。

「ちゃっかりやってんなぁ」
「何の話?」

白沢は微塵も動じていない。
表情豊かな彼女が、まったく顔を変えない様は恐ろしく、仕掛けたはずの遠藤もかすかに怯んでいるように見えた。

「興味ない、みたいな顔してさ」
「見栄張っといて、振り回されるようなことはしないけどね」
「は?」

遠藤が凄むけれども、何やら劣勢なのは明らかだった。
話が見えないが、遠藤の大学生の彼氏についてだろうか。
ともあれ色恋沙汰についての考え方の違いが、彼女らの仲違いの一因であることは明らかだった。

結局、ヤナガワサンに置いていかれることを嫌い、白沢に向かって「性格悪っ」と吐き捨て、遠藤はタバコ部屋の方に行ってしまった。

白沢はそのまま、部屋の方を眺めつつ、表情のない声を発する。

「あの二人、いつもここ来んの」

ぼくに投げかけられた質問であることに気づき、慌てて答える。

「あ、うん。遠藤さんは最近だけど」
「そっか。ごめんね、なんか」

そう言ってぼくの方を向いた白沢は、血の通った人間の顔をしていた。
ぼくはかえって、それが恐ろしかった。
仕掛けてきたのは遠藤であったけれども、白沢は明確に、遠藤の「人権ゲージ」をすり減らしたのだった。

「女子こわいって思った?」

ぼくは頷く。見透かしたような質問をしてくることも、不可解で恐ろしいのだった。

「そりゃね。自分でも面倒だもん。あれ、何の話だっけ?」
「ぼくが、敵として見てるって」
「あぁ、そっか。なんか説得力なくなっちゃったなぁ」

確かに、あの表情のあとでは、どうにも信じることはできなさそうだ。

「まぁいっか。とにかく、ハブられてるとか思わないでね。誰も気にしてないし、ね」

そう言って白沢は行ってしまった。
気にされていないとうのも、それはそれで虚しい感じがした。
いずれにせよ、ぼくの人権ゲージは、テストの点数という一点によってのみ、どうにか保持されているに過ぎないのだ。

少ししてタバコ部屋から出てきたヤナガワサンと遠藤は、とくにぼくに目を向けることなく通り過ぎていった。
遠藤にとってはヤナガワサンと同じタバコのにおいを纏うことが、自身の人権ゲージを守るための手段なのだろうと思われた。
そう思うとなんだか、ぼくに気を遣ってくれた白沢よりもむしろ、遠藤の方に親近感を抱くようでもあった。


ヤナガワサンのゲージは、どうなっているのだろうか。
それはこの学校の何によっても揺るがされることがないように思われた。
他人にどう思われようが、彼女は彼女のままであるに違いないのだ。

どうやら白沢の言うとおり、文化祭明けにぼくが抱いた疎外感は単なる被害妄想に過ぎないのかもしれなかった。
いつのまにか、ぼくに受信できない電波の存在を疑うこともなくなっていた。
そもそも、クラスメイトの誰かと交流することもこれまでなかったのだから、もとよりいないものとして扱われていたようにも思えるのだった。

昼休みの部室棟で、パンを頬張る。
ここを通るとき、ヤナガワサンはもちろんだけれども、遠藤もこちらに意識を向けることをしなくなっていた。
ぼくの見ているところで白沢からの一撃を受けたことが、その態度に影響を与えているのだと思う。
強力な人権ゲージを持つ者は、自分のいないところでも、他人の行動を制限できるのかもしれない。

と、知らない先生がこっちに向かってきているのが見えた。
日焼けした肌と、逞しく分厚い肉体から、運動部の顧問であることが推測された。
まずい、バレる、と思ったけれど、彼女らの喫煙がバレたところで、ぼくには何の関係もないはずだ。
それなのに、ぼくの焦りは止まらなかった。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像
#14 抽象と具体の接点
#15 内面と世界の間の通路
#16 仮定法の世界
#17 罰による強制
#18 コバンザメ
#19 小さな変化
#20 個別のチャット
#21 権力の構造
#22「羅生門の記憶」
#23 未知の生態
#24 人権ゲージ
#25 淘汰する側の者
#26 揺るがされないゲージ
#27 密告

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