#6 注釈を加えているもの――像に溺れる

ヤナガワサンが停学処分となってからも、ぼくの頭は彼女のオレンジのパーマで占められ続けていた。それはあまりに鮮明なイメージとして焼き付いていたので、ぼくは目の前の空席に、おのずとその姿を映し出してしまうのだった。

現代文の授業では、梶井基次郎の『檸檬』を読みはじめていた。木田先生が、「見すぼらしくて美しいもの」というフレーズについて解説している。逼迫した経済状況に追い込まれた語り手が、以前とは異なる事物や風景に惹かれるようになったという、その変化のありようを示す言葉だ。

木田先生は、「美しさの条件とは何だろう」と、自ら答えるための問いを提起した。彼は重要なポイントを解説するときいつもそうするように、誰に対して語りかけているのか判然としない、陶酔したような語り口で、次のようなことを言った。

美しさには種類があって、均整とか調和とか、純粋に対象物そのもののありように関わるものもあれば、はかなさとか物憂さとか、主観的な感情と結びついているものもある。

哲学者のカントは、美について「一切の利害的関心から切り離された状態で、感覚的に満足をもたらすもの」といった解釈をしたけれども、美を関心と切り離してしまったのでは感情に起因する美を説明することができない。仮にカントの言う美を「スタンダードな美」と考えるなら、失恋したあとのやさしい街の灯りとか、主観的な関心や条件に依存する「注釈つきの美」というものも想定する必要があるだろう。

見すぼらしくて美しい、というのは、貧しい状況においてはじめて生じてくる感覚だから、そういう意味でこれは極めて主観的な、注釈つきの美しさである。

ぐるぐると、宙に浮いたまま展開していくような木田先生の説明を聞きながら、ぼくはヤナガワサンの髪のことを思う。ぼくはそれを美しいと思っているのだろうか? 感覚的な満足……心を奪われる状態を、ある種の満足と呼ぶのなら、ぼくはあのオレンジのパーマに美を見出していることになる。それならそのパーマの美しさには、ぼく自身の主観的な条件から生じる、何らかの注釈がついているのだろうか。

教科書に並ぶ文字列が、ヤナガワサンのオレンジに侵食されていく。生活のにおいがする裏通り、安っぽい花火の包装、びいどろの入ったおはじき、そういうものにオレンジのパーマが加えられ、そうかと思えば、切子細工や香水瓶といったものに、繊細なニュアンスの毛先が加えられる。価値観の変化を示すはずの対照関係が、すべてオレンジのパーマで塗りつぶされて、いよいよ読解どころではなくなった。

ぼくはそれ以降、帰りのホームルームが終わるまで、ぼくのなかで「注釈」を加えているものについて考えていた。ぼくの置かれている環境の、一体何がヤナガワサンの髪を美しく見せているのだろう。

装飾のない校舎と、どれも同じ形をした教室。ぼくが身を置いているこの場所について考えることは、自分の親をはじめて意識的に他の大人と比べたときのような、言いようのない失望感を伴った。

ぼくを取り囲み、いつしかぼくの血肉と化した、濁った水と澱んだ空気。排出しえない負い目と恥が、音だけ聞こえる水脈のように、確かにぼくの内部を循環している。「注釈」の出所を突き止めるには、ぼくの血液に含まれる成分を、あらゆる検査によって判定しなければならないように思われる。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯

 

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