#4「像」の世界——像に溺れる

自宅の最寄りの駅からは、よく手入れされた並木通りが南に向かってまっすぐに伸び、日中の街並みはいつも陽光に包まれている。四つの車線の端には、並木と花壇のスペースが広く取られ、歩行者が車を意識することなく歩けるようになっている。

有名国立大学へと通じていくその通りには、外国の研究書が並ぶ古本屋や、カフェを併設したアンティークショップ、個人経営の洋菓子店などが軒を連ね、精神と生活がきれいに折り合いをつけている、という感じがする。


それぞれの駅前には表情があって、そこで活動する人たちの精神と生活、そういうもののバランスがはっきりと表れる。精神的な充足よりも生活上の需要が重んじられるエリアには、なんだか胃もたれを感じさせるほど、ありふれたチェーン店のロゴがひしめいている。精神性の度合いが高まるほど、街からは記号が減って、「あそこのカフェのマスターは趣味のいいジャズをかける」とか、経験的な意味だけが残る。

そのような意味によって成り立つ街は、洗練された印象を与えるけれど、ぼくはこの街の、そういうスタイリッシュな精神性みたいなものに対して、よそよそしく感じることがある。

この街に来たのは3年ほど前、中1の一学期の途中だった。幸い勉強はできたから、学校生活に適応することはできたけれども、この街の雰囲気そのものにはいまだに馴染めていないように思う。文化的な生活とか、洗練されたスタイルとか、そういうものに惹かれはするのだけれども、自分の何がどうなればそれが達成できるのか、ぼくには理解できていないのだ。

洋菓子店を通り過ぎ、そのハンドメイド感のある小さな看板、少し古びたような加工を施されたライトグレーのレンガ調の外壁が、なぜだか鼻についた。小さな店だけれども、それは特別なものであるように思えた。その特別は、ヤナガワサンの特別と少し似ている気がした。

15分ほど歩き、大きな交差点を渡ると、途端に背の高い建物が増えてくる。駅の周辺は、景観の問題から高いビルやマンションを建てることが難しいらしい。これまで何度も、住民の強い反対により建築計画が頓挫してきたと聞く。

ぼくが住んでいるのは、駅周辺への立ち入りを禁じられてしまった、背の高いマンションの一つだ。それは交差点より駅側に並ぶ建物に比べ、著しく洗練されていない印象を与える。家族を一つのユニットとして、それぞれの空間に収めるための、巨大な箱。同じ間取りがいくつも並び、番号だけが個々の空間を区別する。家族をつくるという人間の生態、家族というあり方から形づくられる生活の形態、それらを同じ規格に収めていく。

「特別」の対極にあるはずのこの空間には、けれども不思議な安心感がある。学校の教室や制服、それらと同種の安心感。自分のあり方は何も間違っていないと、何やら巨大な、個人を超えた意思のようなものが教えてくれる。

誰もいないリビングを通り過ぎ、奥の部屋に入る。六畳のフローリングに、何の意匠もない白い壁、おそらくチェーンの家具店で買ったと思われる、学習机とシングルベッド。同じような部屋が世界にいくつあるかわからないけれども、この部屋のなかでぼくはぼくだけの世界に入りこむ。

椅子に腰かけ、スマートフォンの電源を落とす。それはぼくにとって、精神状態を切り替えるスイッチだ。スポーツ選手のルーティンのように、集中した状態を引き出すための儀式として、ぼくは勉強に取りかかるときいつも電源を落としたスマホの画面を数秒見つめる。

真っ黒な画面に映る自分の顔。じっと見ていると、向こうの自分が本物であるような錯覚がやってくる。音もにおいもしない向こう側の世界は、ぼくを苛むものが一切存在しない「像」の世界だ。画面に映った自分の像に、自分自身を重ね合わせていく。そうすると間もなく、自分を取り囲むあらゆるものが、「像」として見えてくる。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界

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