#5 内面世界による救済――像に溺れる

像には「内側」が存在しない。像はいかなる意思も記憶も所持することがない、単なるデータの塊として存在している。それらはゲームのグラフィックのように、コードによって操作可能なものだ。この像の世界では、ぼくの扱えるコード、すなわち学習した言葉や法則によって、あらゆる像を任意に操ることができる。

英文法を勉強しているときなら、後ろのベッドが仮定法によって空を飛ぶこともあるし、関係代名詞によって犬が横たわっていることもある。物理をやっていれば摩擦係数0の坂を滑り落ちたりするし、地理であれば和歌山県の木材で作られたことになったりもする。

新しい公式や規則、知識を身につけた分だけ、像の世界は拡張されていく。調整可能なパラメーター、たとえばゲームの環境設定や、キャラクターの能力値や装備とか、弄れる項目が増えていく感覚。分詞構文や因数分解など、自分にとって画期的な概念を理解すれば、目に映る世界の解像度や奥行きが一気に増していく。ぼくにとっての勉強は、現実を生き抜くための手段であると同時に、この像の世界における自由を拡大していく過程でもある。

像の世界にすっと入りこむために、ぼくはまず英文法に取りかかる。時制、人称、格……普段の言葉とは異なる規則に従うことで、思考は現実世界から切り離される。現実世界で抱いていた鬱屈とした気分も、ここですべてリセットできる。自分の頭がいったん分解されて、パーツごとに洗浄されたあと、再び組み上げられていく感じがする。

外国語を学ぶことで神経衰弱を克服したと、坂口安吾が言っていたけれど、心が混乱していたり荒んでいたりするときに、違う国の言葉に触れるのは案外効き目があるのだと思う。言語のルールはその世界のルールの下敷きみたいになっていて、異なるルールに触れることが、ある種のリセット作業になるのだろう。

 

しばらく英文法をやったあと、いつもは世界史に取りかかる。英文法は規則やルールに関わるもので、世界史は物語に関わるものだ。ぼくはそれぞれの科目を、「規則」に関わるものと、「物語」に関わるものに区分している。像の世界を拡張していくにあたって、「規則」は主に環境設定とか舞台装置とかの構造面に影響する。グラフィックの鮮明さや、動作の滑らかさといった面で拡張を進めることができる。一方の「物語」の方は、舞台に登場するものの多様性に関わっている。キャラクターの性格とか関係性、アイテムの種類といったものに、幅と深みをもたらしてくれる。

 

規則と物語の区分は、ぼくが勝手に作っているだけなのだけれど、こういう科目の性格づけを自分でしておくと、学習にメリハリができる。ちなみに同じ教科でも、ぼくのなかでは漢文は「規則」で古文は「物語」、物理は「規則」で生物と化学は「物語」になっていて、勝手に区分された科目たちから文句を言われるかもしれない。

現実と切り離された世界に没頭する、この狭い部屋のなかでのぼくの姿は、誰の目にも触れさせたくないものだ。かじりつくようにして問題を解く自分自身を、ふと客観視して自己嫌悪に見舞われることもしばしばあった。

けれども高校に入ってから習った、北村透谷の「想世界」や、プラトンの「イデア界」という考え方はぼくを勇気づけた。現実世界から切り離された、概念によって成り立つ内面世界というものを、案外多くの人が持っているのかもしれない。ぼくの世界はもっぱら学習内容の理解と拡張を目的とした、ゲーム的な空間だけれども、別の世界を「設定」することが人間にとって創造的な営みとなりうるというのは、ぼくの「像の世界」を全面的に肯定してくれた。それは現実の環境に依存することなく、ぼく自身の存在を「特別」にしてくれる世界にちがいなかった。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの

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