#108 和合――像に溺れる【最終章】

心臓に巻きつく冷たい鎖が、母の言葉で締めつけられる。
ぼくは管理される子どもにすぎない――自立した人格を備えた人たちのなかで、ぼくだけ未成熟なアメーバのように、形態を定められずに漂っている。

「今すぐ帰って、どういうことか説明して。あなたたちも全員、顔を覚えましたから」

収束に向かっていた場の空気を突如として破壊した母に、誰も、何も言わなかった。
それはよく覚えのある感覚だった。
ちょうど、母が学校にクレームを入れている時と同じ、自分の存在がみるみる矮小化していく感覚。

過保護な親と、意思のない子ども。
ぼくらはもう、それでしかない。
母とぼくを取り巻く歪んだ周波が、居心地の悪い耳鳴りみたいに、周りを辟易させている。
いっそのこと、アクセサリーのチャームにでもなってしまいたい。

子を抱えるヤナガワサンの表情は、一切の解釈をすり抜けるように推し量れない。
失望も軽蔑も、そこからは読み取ることができない。
ぼくは彼女の目に、どう映っているのだろう。

小柳は取っ組み合った僧のそばで俯いたまま、ぼくと目を合わせようとはしなかった。
ぼくの躊躇が、貴重な理解者との出会いを仮初めのものに押し戻してしまった。

大事にしていかなければいけないものの一切を、ぼくはこの血に染みこんだ臆病によって失っていく。
せめて核がほしかった。
自分の足で地面に立つための軸のようなもの、ぼくが求め続けているのはそれだった。

立ち尽くすぼくの腕を、母がぐいと掴んだ。
皮ふの裏まで、母の思念が染みこんでくるのを感じる。
それはまさしく、母の刺々しい外皮をかたちづくるものの感触だった。

しかし同時に、流れ込んでくる思念のうちには、年季の入った錆のようにざらついた、ある不安の表情が感じられた。
そのときなにか、ぼくという子を持ったことに対して、母を労うような気持ちが無神経にも湧いてくる。

ぼくを縛るこの鎖は、母の不安を種にして、またその神経を養分にして生育した蔓にほかならなかった。
その観念とともに、鎖は少し不快な生ぬるさを帯びて、内臓に食い込み、しかしやわらかく馴染んだ。

どうあれぼくは、これでやっていくしかない――涼しく透徹したものが頭を過り、母の手を振りほどく。

「母さん、ごめん。ぼくは、あなたの望む人間にはなれない」

母の表情が強ばり、なにかを言おうとするが、今一度ぼくらの瞳がかちりと合った瞬間、そこから緊張の色がわずかに引いた。
「あなたは一体、なにがしたいの」
「どうしたいのか、わからないのが嫌なんだ。それがようやくわかった」
「具体的に言いなさい」
「勉強するよ。今度は、自分のことを知るために。もしかするとそれは、受験には適さないものかもしれないけれど、そのときは認めてほしいと思う」

ぼくの言葉に、母は確信を持てずにいるようだった。
滞留していたものが流れ出し、しかしそれが向かう先については何一つ知れない。

逡巡のなか突然、ヤナガワサンの抱く子が泣き声を上げる。
彼女は少しぎこちなく、子どもを揺すり、背中をトントンと叩いたりする。
それはとても収まりのよい光景に見えた。
けれども台風みたいな赤子の情動に対し、そうした情緒は一切無力で、赤子はまったく泣き止む気配がない。
スキンヘッドの男とともに困惑するヤナガワサンの姿が、洗浄したてのレンズを通したみたいに、曇りなくぼくの目に映じている。

母は巡る思考を一度整理するためか、ぼくから視線を切り、ヤナガワサンの方に向かっていった。
「もう眠いんでしょう。ちょっとこっちに」
そう言って赤子を抱えた母は、はじめからその子を抱くことを定められていたみたいに、ひしとその体を包み、いかにも自然に赤子を揺すりはじめた。

そこにはアルバムで見る母の面影があった。
その光景は、肉体の隠れた細部に似た、正視に耐えないおぞましさを感じさせる。
そこには同時に、ぼくを構成するぶよぶよとした不定形のなにか、しかも地縛霊のように同じところに留まり続けようとする何物かの片鱗がある。

逃れることはできない。
この不気味な化け物を、飼い慣らすでもなく食われるでもなく、自分の一部として和合していかなければいけない。

赤子はまもなく泣くのを止めて、静かに眠りについた。
「ありがと、ございます」
ヤナガワサンが赤子を受け取る。
それを見て、スキンヘッドの男が道を引き返していく。
きっとこれが、最後になるだろう。

「柳川さん」

今度はちゃんと、届く確信をもって呼びかけた。


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—2
第5
最終
  • #108 和合

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事