#64 胸騒――像に溺れる

車窓越しに眺める日没後の空は、色あせはじめたジーンズみたいに、変質過程の一点を切り出したような曖昧な色彩を放っている。
電車が駅に止まって、開いたドアから吹き込む風が、さっきよりもだいぶ冷たくなっている。
空の色が深まっていくとともに、ますます地上は冷気に包まれていくだろう。
寒くなる一方の空の下に、ぼくは無一文のままのヤナガワサンを残してきた。

スマホ画面には、児童虐待の相談窓口のページが開かれたままになっていた。
その簡素なレイアウトからは、その後に生じうる家庭への介入、そこに付随するはずの生々しい諍い、そうしたものの臭気は一切嗅ぎ取ることができない。
このページから、ヤナガワサンの家庭環境に決定的な変化が引き起こされる可能性について、ぼくは何ひとつ想像することができなかった。

目の前に座る親子の会話が耳に入ってくる。
無感動に揺れる車両のなかで、知り合いには聞かせられない話を垂れ流す女子中学生とその母親。
特定の科目が得意な生徒に対する、理由のない嫌悪感。
友達とその志望校とのミスマッチ。
否定的な感情が詰め込まれた娘の話を、母は共感的に受容している。

それはいやな光景だった。
単なる愚痴の共有ではない気がした。
ネガティブな感情はある種の攻撃性となって、娘の受験勉強を加速させる――そういうサイクルに、母親があえて乗じているように思えるのだった。

その中学生は、ぼくらの高校を志望しているようだった。
敷かれたレール、その通過点。
ぼくは彼女とどう違うだろう。
既成の型と、そこに誘導する大人たちの罠、自ら嵌まっていく子ども。

彼女らの話を聞くのに耐えかね、ぼくはホームに降りていた。
乗換駅まではまだ三駅ある。
しかし、ぼくを目的地へと狂いなく運ぼうとするその電車に、ぼくは乗りたくなくなっていた。

戻って、ヤナガワサンを探そう。
夜風にあてられ、そんな考えが浮かんだ。
しかしこのまま戻ったとして、携帯のないヤナガワサンと落ち合える可能性はほとんどないだろう。
それに、これ以上遅くなれば、母親が面倒――そう思った途端、ぼくの体はそれに反発するように、反対側のホームに向かっていた。
母親がどうこう、というのが自分の判断基準になることを、なんとしても避けたい気持ちになっていた。

間もなくやってきた電車に乗り込み、来た道を引き返す。
スマホのマップを見ながら、降りる駅の見当をつけるが、その程度でどうなるとも思えない。
ともかく、引き返してヤナガワサンを待つこと、それ自体が目的になっていた。
ヤナガワサンを見つけることではなく、待ったという事実が欲しいだけなのかもしれない。

海までに通った国道と、線路が交差するあたりのポイントで下車することにした。
普通に考えれば、スマホもないヤナガワサンは、来た道を引き返してくるはずだ。

しかしいざ国道に出ると、途端に自分の体が路傍の石ほどに卑小なものと感じられる。
これほど無慈悲に、あてもなく広がっている世界で、たった一人の人間を見つけ出せるはずがなかった。

一方でその感覚は、ぼくを絶望させはしなかった。
寒空の下で、おそらく現れることのない人を待つことが、ぼくの負い目を軽くするように思われるのだった。
少し海の方へと進んでみたり、歩道橋に上って遠くの方を眺めてみたりしながら、ヤナガワサンの姿を期待することなく待ち続けた。

母には一言、遅くなるから夕飯はいらない、とだけメッセージを入れておいた。
一瞬、重たい靄のようなものが頭をよぎる。
スマホの電源を切り、ふっと息を吐き出し、うっすら白くなったその呼気を目で追いながら、なるべく考えないようにした。

歩道橋から見下ろすヘッドライトのまばゆい白と、ブレーキランプの突き刺すような赤、それらの流れは何かの信号のように、中身のあるメッセージをぼくに告げ知らせているようにも思えて、ぼくはその意味を把握しようと長いことそれらを眺めていた。
けれども当然、それらは行き先も意図もバラバラな、単に同じ規格の集合であるに過ぎず、そこには意味など読み取りようがないのだった。
それでもぼくは暗示的に、それらが告げ知らせる意味をぼくが読み取った瞬間、ヤナガワサンが姿を現し、ぼくを許してくれると妄信しているのだった。

気づけば長い時間が過ぎていた。
鼻や耳どころか、頭蓋骨まで冷え切っている感じがする。
今何時だろうか。
スマホの電源を入れ、21:36という表示が目に入った瞬間、着信画面に切り替わる。
母だった。
あまりのタイミングのよさに、これまでずっと電話をかけ続けていたのではないかと身の毛がよだつ。
スマホは鳴り止む気のないアブラゼミみたいに、不吉に振動し続けている。
ただならぬ圧に抗えず、通話ボタンを押した。

「ねぇ、何をしているの? 警察から連絡が来てるんだけど」


[連載小説]像に溺れる

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