#60 カルマ――像に溺れる

眠気がうっすら滲み出したような午前の住宅街に入り込み、ぼくらは自分たちの疲労を思い出していた。
ゆらゆら歩き続けるヤナガワサンの後ろ姿からは、高揚して奇声をあげる姿はもはや想像できない。
気休めのような冬の陽光が、肩に残る小さな掌の感触をあやふやにしていた。

住宅街を抜け、再び幹線道路に出ると、ドラッグストアやらファミレスやら、主張の強いロゴが一帯の景色を埋めている。
「腹減ったな」
ヤナガワサンが久々に口を開いた。
「結講店はありそうだね、何がいいかな」

一瞬、ヤナガワサンが何かを言おうとして、途中でまた何かに気づいたように口をつぐんだ。
躊躇する様子に、彼女がお金を持っていないことを思い出す。

親からもらっている金で、ヤナガワサンに奢る。
むずがゆい感じがした。
お金のことでヤナガワサンが不自由を感じているのも嫌だったし、それを解消するのが何の苦労もなく手にした紙切れだというのも納得がいかなかった。

結局ヤナガワサンの食べたいものを探ることはできず、ぼくらは再びファミレスに入った。
平日用の日替わりランチを頼むと、ヤナガワサンも同じものを頼んだ。
まったく同じ、ハンバーグとコロッケのセットが、向かい合わせに並ぶ。
それは奇妙な光景だった。
ぼくとヤナガワサンが、同じものを食べていいはずがない。
一回一回咀嚼するごとに、何か悪いことをしている気がしてくる。
ちらと視線を向けると、ヤナガワサンも心なしか遠慮がちに見えた。
むずがゆくてたまらない。

「気にしないでよ、ぼくのお金じゃないし」
要領を得ない言い方になってしまった。
ヤナガワサンが口を開けたまま動きを止めて、なんとも間の抜けた表情を浮かべる。
切れ長の目が、ここぞとばかりに脱力している。
「いや、お前のお金だろ、お前の親のお金ってことは」

よくわからない理論に、今度はこっちが固まってしまう。
親の金は、自分の金?
「いや、自分で稼いでないんだから、ぼくのではないでしょ、厳密には」
「厳密ってなんだよ。じゃあお前さ、どっちの親に似てるって言われる?」
「え、何、いきなり。いや、顔は父に似てるって言われるけど」
「そんなら、お前の顔は父親のもんってワケだ」
「……それは全然別の話でしょ。遺伝子は先天的だけど、収入は後天的だよ」
「本当に? なら、家庭環境は後天的かよ? 線引きできねぇだろ。お金だろうが才能だろうが価値観だろうが、親から引き受けちまってんだよ。いるもんもいらないもんも、ぜんぶひっくるめて」

無理矢理言いくるめられている気がするが、うまい反論が見つからない。
「でもそれだと、ぼく個人の責任も自由もなくなっちゃうよ」
「もともとねぇだろ、そんなもん。世界のどこ行っても同じこと言えるかよ」
すこし逡巡して、ぼくは口をつぐむほかなかった。
自分の知らない、恵まれない人のことを想像すると、途端に負い目を感じてしまう。
そもそもその人たちを恵まれない人と断定していること自体、傲慢であるようにも思う。
八方塞がりだ。

「生まれた時点でもう、罪を背負ってるのかな」
「うぜぇ。また自分で悩み作ってんのかよ。考えてるフリだろそんなん」
その通りだった。
ぼくは自分の負い目を解消したいと思っているだけだ。
「そのお金はお前のお金で、お前のゴウだろ。そんで今から、私のゴウにもなる」
そう言って、ヤナガワサンは俯いた。
お金を借りる負い目を思い出したのかもしれない。

業。カルマ。
それは生きているだけで生じてくる。
何かを食べるだけでも、あるいは呼吸するだけでも、ぼくは世界に何らかの作用を及ぼしてしまっている。

ヤナガワサンに「うぜぇ」と思われることも、ひとつの業なのだ。
同時にそれは、ヤナガワサンの業でもある。
心のなかに誰かの像をつくること、誰かの心に自分の像を刻むこと、それがすでに業なのかもしれない。
そうだとしたら、人と向き合うことそのものが、業が生まれる原因だということにならないだろうか。
あるいはもしかすると、業を互いに抱えあうことが、向き合うことの本質だったりするのだろうか?


[連載小説]像に溺れる

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