先生はぼくにまっすぐ視線を向けていた。
太い眉と、いかにも頑なな精神を湛えた瞳は、ぼくを硬直させるのに十分な圧を持っていた。
人権はこういうところでも決まるのだと、他人事のように考えている自分がいたが、身体は動かないままだった。
「こんなところで、何してる」
「え、昼食を」
「なんでわざわざここまで来る必要がある」
必要、という言葉が暴力的に響く。
必要かどうかで判断されてしまうと、ぼくの行為は理にかなわないものばかりだった。
「教室で、食べるのが……苦痛で」
苦痛という言葉に、先生が表情を変える。
「クラスで、うまくいってないのか? どこのクラスだ?」
声に温度がある。
ぼくは自分が、あえてその言葉を選んだことを恥じる。
無意識のうちに弱者に擬態し、同情を誘おうとしたのだ。結果、クラスメイトを悪者に仕立て上げそうになっている。
「いえ、いじめられてるとかじゃないんです。ただ、ぼくがうまくやれないだけで」
「そうか。自分から行動するのも大事だぞ」
そう言って、先生は部室棟の奥に目を向ける。
「あっちに誰か行かなかったか?」
背筋に刃物を突きつけられたような感覚をどうにか押し殺しながら、ぼくは自然な応対に努める。
「あっち、ですか? いえ、ぼくが見た限りでは……」
「そうか。まぁいい。あ、相談相手をつくることも大事だ、自分から行動しないとな」
そう言って、先生は筋肉質な背中を見せつけるように去っていった。
それができたら苦労はしない、と思ったが、悪い先生ではないのだろうと、安直な感想を抱いた。
しかし、なぜ彼はここに来たのだろう。
なぜ部室棟の奥の部屋を気にしたのか。
大体察することはできたが、当然、それを先生に確かめることはできなかった。
少しして、ヤナガワサンたちが部屋から出てくる。
ぼくは立ち上がって、彼女らに近づいていった。ヤナガワサンが怪訝そうな顔でぼくを見上げる。
睨まれている、と感じる。
香水とタバコのにおいが、虫除けスプレーみたいにぼくの接近を拒んでいるようだ。
けれども彼女らに利するはずの情報を持っていることが、ぼくを少しだけ積極的にしていた。
「先生、見回りしてるみたい」
「あ、そ。ドーモ」
2秒ほどの返答のうちには、けれども確かにリズムと抑揚があって、ぼくは確かに彼女にとって有益な情報を提供したのだと思えた。
そんなことになぜ喜びを見いだしているのか自分でもわからない。
それでも、ぼくは何か、ぼく自身の人権を肯定できるような気になっているのだった。
「誰が来たん?」
遠藤の声が、浮かれるぼくに釘を刺す。
「名前はわからない。マッチョで日焼けした、目力強い先生」
「古賀かよ。クソ」
そう言って、遠藤は舌打ちとともに、憎悪に駆り立てられているような表情を浮かべる。
それほど過剰に反応するようなことだろうか。
「知ってるの?」
「テニス部の顧問」
それだけ言い残し、遠藤はヤナガワサンのあとを追っていった。
なんだか釈然としないまま、ぼくも教室に戻る。
教室に入り、ふと視界に入った白沢の姿に、ぼくは悪い直感に見舞われた。
白沢と早川、そして遠藤は、三人ともテニス部だったじゃないか。
遠藤は多分もう部活に行ってはいないのだろうけれど、二人はまだ部活を続けているはずだった。
あの先生の見回りが、白沢の差し金だとしたら?
もちろん、白沢がテニス部であり、その顧問が見回りにきたというだけで、そこに明確な根拠があるわけではなかった。
事実がどう、というのではなく、それはただただ「しっくりくる」に過ぎないが、しっくりくることは事実よりも、しばしば重みを持つように思われた。
そしてぼく以上に、遠藤にはこの推測がしっくり来ているはずだった。
部室棟で白沢と遭遇した直後に、白沢の所属する部活の顧問による見回り――遠藤がこれを、白沢の「チクリ」に由来するものだと考えない理由があるだろうか?
ぼくは自らの決定的な過失に気づく。
先生の見回りをヤナガワサンと遠藤に密告したことで、ぼくは遠藤に、白沢を疑わせる材料をあえて提供してしまったことになるのではないか? 仮に、今日の見回りが白沢とは何の関係もなく、偶然行われたに過ぎないのだとしたら……
[連載小説]像に溺れる
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