夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①【大学受験の近現代文学史を攻略する⑥】

前回見ていたように、文壇における明治40年代は自然主義文学が活発な時代でした。

ところが、世の中に「絶対的なもの」は少なく、ある立場が注目されるときは大抵、それと反対の立場も存在するものです。

そう、自然主義文学が大きな力を持っていたのと時期を同じくして、それとは反対の立場も存在していたのです。

今回から数回にわたり、「自然主義」に対して「反自然主義」と呼ばれるこの立場を追いかけていくこととしましょう。

「反自然主義」の潮流

高踏派・余裕派、耽美派、白樺派なとで知られる「反自然主義」文学。

明治40年代周辺では、まず夏目漱石と森鷗外、二葉亭四迷の存在が注目されます。

今回はその中でも初期の夏目漱石に焦点を当てていきたいと思います。

 

夏目漱石の登場

『吾輩は猫である』をはじめ、現代でも多くの作品が読み継がれている夏目漱石。
彼の文学が文壇や文学自体に与えた影響は計り知れないものがあります。

とはいえ、まずは文学者としての夏目漱石を見る前に、彼の生い立ちから追いかけてみることにしましょう。

 

「道草」に垣間見える幼少期

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)数代前から続く名主である夏目家で誕生した漱石(本名:金之助)。

彼は生後四ヶ月で四谷の小道具屋に里子に出され(やがて連れ戻される)、さらには1歳で父親の友人であった塩原昌しおばらまさ之の助すけの養子に出されるなど、波乱の人生を歩み始めます。

後に養父母である塩原夫妻の離婚により塩原家に籍を置いたまま生家に戻り、21歳のときに夏目家に復籍した漱石は、この時の経験やその後も続く養家との関係を、自伝的小説『道草』の中で描いています。

『道草』
1915(大正4)年。『吾輩は猫である』執筆前後の日々を題材とした夏目漱石の自伝的小説。
漱石をモデルとする「健三」は海外留学から帰ってきて大学教師になるとともに、執筆活動をしている。そんな中、彼の元に育ての親である島田(塩原昌之助)や姉、義兄、妻の父など親族が入れ替わり立ち替わり金を無心しに訪れる。そんな日々の中で、健三は苦悩を募らせていく。

最後の場面に描かれる

「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」

という健三の台詞に至るまでの流れを追いかけてみると、漱石文学に対して漠然と抱いていたイメージに変化が訪れるかもしれません。

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正岡子規との出会い

数奇な幼少期を経た漱石は、第一高等中学校在学中の1889(明治22)年、23歳のときに後の彼に大きな影響を与える友人に出会います。

その友人の名は正岡子規。
後に俳句の革新運動の中心人物として知られるようになる人物です。

正岡子規
1867(慶応3)〜1902(明治35)年。本名は 常規 つねのり。肺結核により喀血した自分を、「血を吐くように鳴く」と言われるホトトギスになぞらえ、 子規しきという名を用いるようになった
松尾芭蕉の句を批判する一方で与謝蕪村の句を高く評価し、俳句における「写生」の重要性を説く。後に『歌よみにあたふるしょ』で短歌の革新にも着手し、短歌においても「写生主義」を主張した。
彼を中心とした「根岸短歌会」が後に「アララギ派」へと発展する。
※ホトトギスの漢字表記が「子規」

子規との交流は、大学卒業後も続きます。

漱石は1895(明治28)年、愛媛県尋常中学校の英語科教師として松山に赴任。松山は子規の故郷でもあり、このとき帰郷していた子規との再会を果たし、高浜きょとも出会うことになります。

この地で彼は子規とともに俳句に熱中しますが、翌年には熊本の第五高等学校に講師として赴任し、貴族院書記官長の長女である中根鏡子こと結婚します。

 

英国留学と『文学論』構想

漱石は、1900(明治33)年、文部省の第一回給費留学生として英文学研究のためイギリスへ留学します。

そこで初めのうちは英文学研究に励んでいた漱石も、西洋近代に触れるうちに、英文学研究だけでなく「そもそも文学とは何か」といった広い視野での研究の必要性を感じるようになりました。

このときに構想が練られたものが、〈F+f〉の数式が有名な『文学論』でした。この『文学論』は1907(明治40)年、東大の講義をまとめた形で発表され、日本人による最初の優れた英文学研究として高く評価されていきます。

とはいえ、漱石は研究に没頭する日々の中で経済的な困窮も相まって徐々に追い詰められ、神経衰弱に陥っていくのです。

 

東大講師から小説の世界へ


さて、文学研究に勤しんでいた漱石が小説家としての一歩を踏み出すのは一体いつのことなのでしょうか。

東大講師としての漱石

1903(明治36)年、イギリスから帰国した漱石は、小泉くもの後任として、東京帝国大学の講師として英文学を教えるようになりました。

彼の講義は初めこそ学生たちの反感を買うものの、一般講義としてシェークスピア『マクベス』始まった10月以降、次第に人気を博していくようになります。

ところが、そんな漱石はイギリス留学以来再びの神経衰弱に陥ってしまうのでした。

 

『吾輩は猫である』の誕生

神経衰弱に陥った漱石に対し、当時『ホトトギス』の経営をしていた高浜虚子は小説を書くように進めます。

そうして、1905(明治38)年に生まれたのが『吾輩は猫である』でした。

吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。

という有名な一文で始まるこの作品は猫の視点から文明を批評したものですが、漱石が抱えていた実生活の苦悩に穴を開けようとする試みだったと言えるでしょう。

そしてこの作品が評判となり、いよいよ漱石は創作の道へ進んでいくこととなります。

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「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤

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