耽美派の文学——反自然主義文学の潮流⑤

前回まで数回にわたり、夏目漱石・森鴎外の二人に焦点を当てながら「反自然主義文学」のおこりを見てきました。
今回からは、余裕派・高踏派と呼ばれる漱石や鴎外とは違った観点から「反自然主義」の立場をとった文学者たちを追いかけます。

耽美派とは何か


耽美派に分類される文学者たちの具体的な話に入る前に、まずは耽美派の特徴から確認しておきましょう。

永井荷風、谷崎潤一郎に代表される耽美派の、「耽美」という語に注目してみると「美にふける」。
自然主義が「真」「現実」を描くことを目指していたのに対し、彼らは徹底して「美」に重きをおいた立場だということができるでしょう。

 

耽美派と自然主義

耽美派は「反自然主義」に分類されますが、自然主義の恩恵を受けていないわけではありません。
いったいどのような関係があるのでしょうか。

自然主義について解説した「自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋」の記事にあるように、自然主義は文学に「本能に突き動かされる世界」をありのままに描きとる道を開きました。

自然主義が切り開いた「現実をありのままに表現する」描写は、性的な側面も含めてありのままを描くことを可能にしたのです。

このように、耽美派の文学者たちが性的欲望を開放し、官能美を表現することが可能になった背景に自然主義の隆盛による影響があることを無視するわけにはいきません。

 

永井荷風と『三田文学』


アメリカ留学、フランス留学を経て帰国した永井荷風は、明治41年に「あめりか物語」を、翌明治42年には「ふらんす物語」を発表し、耽美派文学の代表的存在となります。

他にも「歓楽」「すみだ川」「冷笑」などといった作品を通し、近代日本を批判しながら江戸情緒に日本的な特色を見出していた永井荷風ですが、彼は作品以外の面でも後の耽美派文学者たちに大きな影響を及ぼす人物となります。

それは明治43年の出来事でした。

この年、森鴎外らの推薦によって慶應義塾の教授となった荷風は雑誌『三田文学』を創刊。耽美派の作家たちに拠点を提供すると同時に、作家たちを育てていくことになったのです。

一方で彼自身は大逆事件を境に、より享楽的傾向を強めつつ「新橋夜話」(大正1年)「腕くらべ」(大正5・6年)「おかめ笹」(大正7年)などを発表した後、昭和に入るまで独居隠遁生活を送っていくのでした。

 

谷崎潤一郎——官能美と女性崇拝の文学者


明治43年11月、第二次「新思潮」に小説としての処女作「刺青しせい」を発表し、文壇に登場した谷崎潤一郎。

過剰な女性崇拝やマゾヒズムがその特徴として挙げられるなど、耽美派文学者の筆頭として知られる彼ですが、その前期と後期では作風は大きく異なっています。

 

谷崎潤一郎とクラフト・エビング

耽美派文学者としての谷崎潤一郎に大きな影響を与えた人物、それは『性的精神病理』で知られる精神科医クラフト・エビングでした。

現代においてもサディズム・マゾヒズムという用語にその影響が残る彼の著作に出会うことによって、谷崎は自らの性癖を自覚し、それを小説の形で表現していくことになったのです。

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たとえば、その処女作「刺青」では、刺青師が「光輝ある美女の肌を得て、それへ己の魂を刺り込む」という「年来の宿願」を果たし、美女の背一面に巨大な女郎蜘蛛の刺青を施した後、麻酔から目覚めた美女は魔性の女へと変化を遂げる姿が描かれます。

その後も、「麒麟」「少年」「幇間ほうかん」「颷風ひょうふう」「秘密」と次々に性的倒錯、徹底した女性崇拝などを特色とした短編小説を発表し続けた谷崎ですが、その集大成「痴人の愛」を境に、その作風は大きな変化を遂げることになります。

 

関東大震災を経て関西へ移住

作風が変化する大きなきっかけとなるのが大正12年9月1日に発生した関東大震災でした。

現代においても、2011年3月11日の東日本大震災、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロとその後のアフガン攻撃をはじめ、社会に大きな衝撃が走るような大きな出来事の前後では、人々の価値観が大きく変化することも珍しくありません。

死者・行方不明 10万5千余人といわれるこの大震災もその例に漏れず、当時の日本社会には価値観の変化が訪れていました。

関東大震災で家が全焼した谷崎は、家族と共に関西へと移住します。
この関東大震災とそれに伴う関西移住が谷崎文学の転機と呼んで差し支えないでしょう。

移住後第一作目の「痴人の愛」こそ前期谷崎文学の集大成だったとはいえ、その後の谷崎の作風は随筆「陰翳礼讃」に代表されるように、日本文化の伝統を重んじ、日本的な美の発見を追求する文学へと変化を遂げていきます。

もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。

(谷崎潤一郎「陰翳礼讃」)

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その後も女性崇拝の頂点とされる「春琴抄」、戦前から書き始めて戦後に完成する谷崎文学最大の長編小説「細雪」を発表するなど、その創作活動は終生続いたのでした。

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「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤

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