雨を含んだ重たい雲がにわかに現れ、熱をもった地表に蓋をし、余熱で地上を蒸し上げようとしていた。校門を出ると、水分を含んだ土のにおいと下水の腐臭が入り混じり、篭もったような濃密さでぼくの鼻腔に入りこんでくる。左手に蘇る、死んだデメキンの感触。それはいかなる注釈も加えることのできない、醜さそのものの感触であるように思えた。
駅までの通りには派手な色合いをしたチェーン店の看板や、古い個人商店の朽ちつつあるような外壁が雑多に軒を連ねていて、そういうものの間を無差別に、老人や主婦たちが移動していく。駅に着く前にぽつぽつと雨が降り出して、すぐさま傘を取り出す人もいるし、小走りでどこかに向かう人、雨が降っていることに気づいていない人、さまざまな動きがそれぞれの速度で展開していく。
その光景はなんだかぼくの心を惹きつけ、生きていることが愛らしいことであるように感じられる。一方で、その光景はどこか遠く、ぼくは自分が、目の前の世界には属していないように思う。人々を散じさせた雨粒が、ぼくの左の掌で生ぬるく不快な液体になった。ぼくは濡れた左手の臭いを確認する。河原と同じ臭いがする。
駅のホームで電車を待っていると、隣の乗り込み口のところに見覚えのある人影があった。ツーブロックの、清潔感ある制服姿。始業式で、ヤナガワサンに声をかけた二年生だ。隣に女子を連れ、親密な様子で話している。
その光景はぼくにとって眩しく映った。高校生の男女が二人でいること自体、ぼくには遠く、フィクショナルなもののように思えるのだけれども、彼らはカップルであることを差し引いても、さまざまな場面で主要な位置に立つ類の人間であるように思われた。
整った顔立ち、艶のある肌、すらっと着こなした制服。話し声も明朗で澱みがない。ぼくは自分が、泥のなかに生息する未発達な生物であるように感じる。
電車が来て、意図せず彼らと背中合わせに立つ恰好となった。ほのかに甘い、石鹸のようなにおいがする。彼らはさりげなく、不快ではない仕方で、少しだけルールを逸脱する術を知っている。それはクラスの中心人物に特有の性質だった。そのような小さな差別化が、全体としての個性となって彼らを際立たせる。左手がまだ、不快に湿っている気がする。
「てか、エミカも懲りないよね」
不意にその女子の言葉が、ぼくにとって明確な意味を持つものとして耳に入ってきた。それはヤナガワサンの、下の名前だった。
「あー……もうあいつ何考えてんのかわかんないわ」
気のせいか、さっきまでなかった緊張感が、二人の間に生じているように思う。背後に巨大なシャボンの膜が張られているような気分だ。
「幼馴染じゃん、『唯一の理解者』ってやつなんじゃないの」
茶化すような言葉の裏に、小さな棘があった。
「昔から、いきなり全部どうでもよくなるんだよ、さすがに手に負えね」
「まあいいんじゃない、お互い子どもじゃないんだし」
なにか斑な、不純物に満ちた沈黙が続く。そこに沈殿している感情について、ぼくは想像することができない。ともかくぼくにわかるのは、ヤナガワサンがツーブロックの男と幼馴染であることと、彼女がこの女子をはじめとした多くの人間から好かれていないらしい、ということだけだ。
電車が次の駅に停まるまで、その沈黙は続いた。けれどもドアが閉まった途端、その女子はさっきまでの話がなかったかのように、化学の教員の奇妙な癖について話しはじめた。その明るい、表層的なトーンの裏に、一体何が蠢いているのだろう。
彼女のうちで拵えられた、ツーブロックの男の像。それに付随する、ヤナガワサンの像。彼女の思考はその二つの像を中心に、迂回したり引き寄せられたり、動きを規定されているように見える。
ぼくの「像の世界」とは異なり、それらの像は現実と地続きの「中身」を有し、操作しえない形で現実世界に逆流していくこともあるらしかった。
[連載小説]像に溺れる
#0 像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊