夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③

修禅寺の大患で「三十分間の死」を経験した夏目漱石。
前回の記事では漱石がこの経験を経て「『死すべきもの』としての人間認識をその後の作品に反映していくことに触れました。

今回は修禅寺の大患以降の「後期」夏目漱石を見ていきたいと思います。

修善寺の大患を経て強く意識された漱石の人間認識

前回触れたように、1910(明治43)年、漱石は43歳のとき『門』の執筆中に胃潰瘍を患い、療養のため訪れていた伊豆の修善寺温泉「菊屋旅館」で大量の吐血をして昏睡状態に陥り、30分ほど生死の境を彷徨います。

後に「修善寺の大患」と呼ばれるこの事件をきっかけに、漱石の中で「死すべきもの」としての人間という認識がはっきりと生まれてきます。

日本の近代を外発的なものと批評した「現代日本の開化」

「修善寺の大患」後の漱石はまず、知識人として日本近代を批評していきます。

1911(明治44年)、朝日新聞社が主催した講演「現代日本の開化」で日本近代をこのように切ります。

西洋の開化は内發的であつて、日本の現代の開化は外發的である。こゝに内發的と云ふのは内から自然に出て發展すると云ふ意味で丁度花が開くやうにおのづから蕾が破れて花瓣が外に向ふのを云ひ、又外發的とは外からおつかぶさつた他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指した積なのです。

このように、漱石は日本の開化を「外発的」なものであると指摘しました。

そしてその後、冷静な人間認識を持つ知識人としての漱石の姿勢は、1912(明治45年)の『彼岸過迄』を皮切りに『行人』『こころ』『道草』『明暗』といった、「人間」を問う小説群へと繋がっていくことになります。

後期三部作


「修禅寺の大患」を境に、漱石の作品は個の自立やエゴイズムといったテーマに焦点を当てたとされる前期三部作(『三四郎』『それから』『門』)とは大きく変化していきます。

いわゆる「後期三部作」と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』の中では、近代の知性に対する疑念が見て取れます。

夏目漱石「後期三部作」……『彼岸過迄』『行人』『こころ』

 

近代知識人の苦悩を描く『彼岸過迄』

「修禅寺の大患」だけでなく、この時期の漱石は激動の時期を迎えていました。

1911(明治44)年に文部省から文学博士号授与の連絡を受けるものの辞退、世間では賛否が紛糾することになります。
また、信頼する友人であり恩人の池辺三山の辞職と死、さらには娘ひな子の急死。

 

こうした出来事が漱石の作風に影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。

そんな中、このように送り出された作品が1912(明治45)年の『彼岸過迄』。
その序文で漱石自身が

彼岸過迄ひがんすぎまで」というのは元日から始めて、彼岸過まで書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実はむなしい標題みだしである。かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見をしていた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日こんにちまで過ぎたのであるから、もし自分の手際てぎわが許すならばこの「彼岸過迄」をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている。

と述べているように、複数の短編が合わさって一つの長編になるという構成をもつこの作品の中では、須永と従妹の千代子の恋愛を軸に近代知識人の深い苦悩が描き出されます。


 

『行人』の主人公一郎は学問だけに生きる孤独な男として描かれます。
妻を愛している一方で信じ切ることはできず、弟の二郎に対する妻の愛情を疑うことになるという一郎の姿を通して、近代知識人の孤独、エゴイズムを脱しない愛を批判していきます。
そして、この一郎と周囲の関係を通して描き出される「近代知識人の孤独」が、その後の『こころ』へと受け継がれていくこととなるのです。

エゴイズムの限界を描き出す『こころ』

『彼岸過迄』と『行人』の間に、明治天皇の崩御と乃木希典将軍の殉死という一大事件が発生しました。

 

この事件は漱石と同時代に活躍していたも森鴎外に大きな影響を与え、鴎外を歴史小説や史伝へと向かわせることとなるのですが、それはまた次回扱っていきたいと思います。

この事件は、鴎外だけでなく漱石にも大きな影響を及ぼします。

大葬たいそうの夜私は何時もの通り書斎にすわって、あい相図の号砲ごうほうを聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました。後で考えると、それが乃木のぎたいしょう大将の永久に去った報知にもなっていたのです。

この「先生」の遺書にも直接触れられている通り、『こころ』という作品自体がこの事件の感動に大きく影響された作品でした。

そして漱石はこの『こころ』という作品の中で、明治という時代に生きた近代知識人である「先生」の存在を通してエゴイズムの限界や、生きるべき時代の喪失を描き出していきます。

 

すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのはひっきょう時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。

 

晩年の漱石——『草枕』『明暗』


後期三部作の後、漱石はその自伝的小説『道草』で『吾輩は猫である』執筆前後の忙しい日々を描き、自身の生い立ちまで遡りながら暗鬱な世界を対象化します。

さらには絶筆となった『明暗』で、漱石が理想とするようになった「則天去私」の境地を体現しようと試みます。

則天去私
小さな私を捨て、身を大きな天に委ねる精神

 

この作品では夫婦や親子、愛人、友人などの登場人物相互の関わりの中にひそむ心理的葛藤を描き出すことによって人間心理の深奥を掘り下げていきますが、この作品が完成する前に漱石は49歳でこの世を去ったのでした。

漱石の文学は自然主義と明確に一線を画す形で独自の世界を築きあげ、大正期の市民文学の先駆者としての地位を確立することとなりました。

 

そしてその精神は、漱石の自宅(漱石山房)で開かれた「木曜会」のメンバーたちに受け継がれながらのちの時代へと続いていくのです。


「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③

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