
「法学入門」の内容は示唆に富んでいて、現実をどのような切り口から考えればいいか、確かな視座を与えてくれた。
 冒頭では「法とは何か」を説明するため、法を成立させる要素が提示されていくのだが、そのなかでも「強制力を持った機関によって実効性を担保されていること」という条件が印象に残った。
強制力というのは、つまるところ罰の存在だ。
違反した者に対して、実際に罰を与えるシステムが機能していなくては、法は単に空虚な言葉に過ぎないものとなる。
ぼくは始業式の日の、ヤナガワサンのオレンジのパーマについて考える。
彼女はなぜ、あれだけ堂々と校則を破ることができたのだろう。
 校則を守るぼくらに比べて、ヤナガワサンにとってはきっと、学校から与えられる罰の重みは大したものではないのかもしれない。
罰が強制力の土台となるためには、それが集団のメンバー全員から、現実的なダメージを及ぼすものとして認識されている必要があるらしい。

学校では中間テストが近づくにつれ、徐々に教室の緊張感が高まっていく。
 休み時間に練習問題を解いたり、通学中に単語帳を確認したりと、誰に指示されているわけでもないのに、皆が一様に試験勉強へと集中していく様子は、ある種の「強制力」を感じさせるものだ。
 ぼくらにとって、「テスト期間中はあらゆる空き時間を試験勉強に費やさなければならない」というのは「法」と同等のものなのかもしれない。
試験勉強を怠ることで、与えられる罰。
点数が低くなり、成績が下がり、進路の選択肢が狭まり、就職先の選択肢も狭まる……
 人生設計に甚大な影響を及ぼすかもしれないその「罰」は、可能性が漠然としているからこそ、未知への不安をかき立てながら、その強制力を肥大化させていく。
つまるところ「勉強しなければならない」がぼくらに対して強制力を持つのは、違反者が落ちることになる穴の底がわからないからだ。
実際の罰は、満足のいく学歴が得られないというだけかもしれないし、あるいは収入や社会的地位が低いままだったりするのかもしれないし、またそれに伴ってさまざまな不都合が生じたりするのかもしれないけれど、フタを開けてみなければわからない。
 それは違反してみなければ課される罰がわからない、底意地の悪い法なのだ。
ともあれさまざまな「痛い目に遭うかもしれない」という可能性の総体から身をかわすべく、ぼくたちは試験勉強へと突き動かされていく。
しかし本当のところ、「勉強しなければならない」は実効性のある法なのだろうか?
 いつにも増して早退や居眠りを繰り返すヤナガワサンを見ていると、なんだかこの「法」が、実際の世界とは関わりのない、単なる空想の産物に過ぎないのではないかと思ってしまう。

とはいえ、「試験の成績」と「将来の選択肢」とが、実際のところまったく関わりのないものであったとして、ぼくは一体何を信じればよいのだろう。
ぼくにはすでに、この道しか残されていないように思う。
内面の世界に閉じこもりながら、それを日々充実させて、いずれ外部の世界へと逆流させていく。
 ぼくが自分自身を実現する方法があるとすれば、きっとそういう形しかありえないのだ。
[連載小説]像に溺れる
 #0  像に溺れる
 #1 「適応」の行方
 #2 場違いなオレンジ
 #3「孤立」という状況
 #4「像」の世界
 #5 内面世界による救済
 #6 注釈を加えているもの
 #7 像の交錯
 #8 淘汰されるべきもの
 #9 空虚な像
 #10 SNSの亡霊
 #11 作られた像
 #12 脱色と脱臭
 #13 標本としての像
 #14 抽象と具体の接点
 #15 内面と世界の間の通路
 #16 仮定法の世界
 #17 罰による強制
 #18 コバンザメ
 
 








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