#13 標本としての像――像に溺れる

サイコロを5回続けて振った時、3以上の目が2回以上起きる確率について、数学の後藤先生が解説している。
「こんなことやって何になるんだって思ってるでしょう?」
反復試行の公式を黒板に書き出しながら、独り言ちるように後藤先生はつぶやく。

自身の担当する科目が生徒に好かれていないことを気にして、彼はしばしば少し卑屈な態度を取るのだった。
けれどもそういう態度を示した後にはいつも、数学を学ぶ意義について身近な形で説明してくれるから、後藤先生自身の人気は高い。
これから展開される「数学を学ぶ意義」についての持論を、普段ならぼくも前のめりに聞いているのだけれど、この時はそういう気分になれなかった。

背中を丸めて頬杖をついていたヤナガワサンが、机に突っ伏し眠りの体勢に入る。
柑橘系の香りがほのかに漂い、後から追ってくる重たいバニラが、「友だちいねーの?」の残響と一緒になって、胃のあたりにずっしり滞留する。

早々に寝息をたてはじめたヤナガワサンの、背中が小さく膨らんだり縮んだりするのを眺めながら、自分だっていないじゃないかと毒を吐き出したくなるのだけれど、彼女にはきっとこの校舎の外に世界があって、そっちがヤナガワサンにとっての「本当」なのだろうと思う。

机の上の左手には、ぬめつく感触が残っている。
適応の道を見誤っているのはぼくの方なのだろうか? いや、ヤナガワサンに馬鹿にされたからといって、それがどうしたというのだろう。
一人の人間の主観的な評価に振り回されるのは、それこそ道を踏み外すきっかけになる。

確率を学ぶ意義を聞き逃し、判然としないまま反復試行の問題に取りかかる。
サイコロみたいに、同じ確率の事象を繰り返し経験する、という場面は生きていてそう出会うものではない気がするけれど、後藤先生はその意義をどう説明したのだろう。

ぼくがまったく同じ条件のもとに生まれ直したとして、ぼくはやっぱりこの「ぼく」になるのだろうか。
ことによっては、ヤナガワサンのようになる可能性も存在しているのだろうか。
分岐点はどれだけあって、全部でどれだけの「ぼく」がありえたのだろう。

ふと、いまここにいる自分が、反復試行の実験体であるような気がしてくる。
標本として並ぶ、さまざまなぼくの像。
そのなかで、いまここに存在している「ぼく」は、レアケースなのか、あるいはありふれたものなのか。
標本のうちでもっとも理想的な像は、どのようなものだろう。
少なくともその「ぼく」は、ヤナガワサンから「友だちいねーの?」なんて言われることはないのだろうと思う。

 

帰りの電車で開いたSNSのタイムラインには、呪詛のような言葉が並んでいる。
生きることにネガティブな人間が使いがちなキーワードによって、ぼくが無差別にピックアップしたアカウント達の言葉。ネガティブな人間の像を構築するため、作為的に行った抽出作業の結果が、目の前のタイムラインとして表れている。
抽出に用いるフィルターの形次第で、それらの言葉の並びはまったく別のようでもありうるのだと思った。

たとえば根性論が好きな人間に特有のものでも、自己啓発本が好きな人間に共通するものでも、どのようでもありえたのだ。
無数の星々がどのようにつながれるのかは、本来見る人によって無数の可能性があり、人間と人間、アカウントとアカウントとのつながりも、その人が持つ人格の傾向次第でどのようにも変化しうる。
そうして形成されたつながりの形は、きっとその人の目に映る世界の形そのものになるのかもしれない。

いま、ぼくの目に映っている呪詛に満ちた世界。
それはぼくが作為的に選んだもののはずなのだけれど、ネガティブに歪んだ世界はいつのまにか、ぼく自身の物の見え方まで歪ませているように思う。

ぼくはなぜ、このアカウントを作るときに、ネガティブな方向を自然と選んだのだろう。
それは単純に、確率的な問題に過ぎないのだろうか。
そもそもぼく自身のうちに、物事を否定的に捉える癖があったから、おのずとこうなったのではなかったか。

こうなったのが偶然ではなく必然なのだとしたら、なんだか逃れる余地がないように思えた。
ヤナガワサンとかツーブロックの先輩とか、彼らとの違いは「たまたま」ではなくて、ぼくが決定的にネガティブだから、ということになる。

ぼくはあらゆる違いが、「たまたま」であってほしかった。
自分が何かに劣っていたり、うまくいかないことが、たまたまではなく自分自身の「本性」みたいなものに拠るのだとしたら、あまりに残酷な話じゃないか。

ぼくは新たにアカウントを作り、標本としての像をいくつか構築しようと思った。
ポジティブな像もネガティブな像も、すべて横並びに扱うことはできないか。
ぼくが「ポジティブな像」の方も難なく構築し、維持することができるのなら、きっとヤナガワサンとぼくの違いも「本性」的なものではなくて、単に「たまたま」そうなっていると、そう思えるような気がしたのだった。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像

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