ふと思い立って、検索欄で「生きる意味」と入力してみる。
死にたいけど死ねない。こんな風になっても、生きる意味を探してしまう。
悠くんとのつながり。それだけが私の生きる意味。
生きる意味なんて、わからなくていい。みんなと一緒にいられるなら。
内面的なことを言っているのに、それらには等しく重みがないのだった。
それらは大きな類型のうちの一例であって、いかなる背後の事情ももっていないように思えた。
すべてが下らなく思える。勉強ができるから何なんだろう。自分が存在してる意味がわからない
ぼくは自分の投稿を見返してみる。
そこに「ぼく」自身の事情は映し出されていなかった。
いかにも下らない、世界に無数にある心情が記されていた。
なにか、SNS上のあらゆる投稿が、AIやbotによってなされているような、そういう錯覚に囚われる。
個々のアカウントはそれぞれのアルゴリズムに従い、インプットされた情報を変換し、言葉の形でアウトプットする。
現実世界の感情や思考には何かの関数をかけられて、ひどく圧縮された解像度で描出される。
いまや画面の中に広がっているのは、自律して動く像たちの世界だった。
それはプレイヤーのいない、NPCだけで成り立つゲームのような不気味さを放っていたけれども、ぼくはなぜだかそこに、ある種の浄化の感覚を抱いていた。
誰もが薄っぺらな像として立ち並ぶ均質な世界で、ぼくはぼくであることの重みから解き放たれるような気がしたのだ。
ぼくはいくつかの検索ワードで抽出した投稿に、片っ端から「いいね」をつけて、そのアカウントをフォローしていった。
「生きる意味」「死にたい」「なんで生きてる」「救い」……センチメンタルのテンプレートが、ぼくの中にインストールされていく。学習したパターンに則り、ぼくも投稿を重ねていく。
こんな世界になんで生まれてきちゃったんだろう
真っ暗で、出口が見えない
いっそ消えてしまえたら楽になれるのかな
フォローと投稿をしばらく並行して続けると、フォロワーが30ほどになっていた。
タイムラインはセンチメンタルの見本市といった様相を呈している。
「傷つきやすい人間」のアルゴリズムは、おおよそ身につけることができたように思う。
ぼくのアカウントが一つの像として存在しはじめたことに、どこか形式的な、ゲームのレベルアップじみた達成感を覚える。
ぼくは次に、「不遇を嘆く人間」のアルゴリズムを身につけようと思った。
「運が悪い」「引きが弱い」といった言葉で検索してみるが、うまく傾向が絞れなかった。
ぼくは不遇というものが具体的な状況と結びついたものであることに気づき、「辞めたい」と検索してみる。
すると、仕事や学校がうまくいかずに嘆く人たちがきれいに引っ掛かった。
ぼくは先と同様の手順で、それらの人をフォローし、同時にテンプレートな言葉を投稿していった。
入る学校間違えた。周りの意識低すぎて自分のレベルまで落ちてく気がする
先生は自分の保身しか考えてないの見え見え。大人って醜い
人間はなんで自分より弱い者を攻撃したがるんだろう
書き込むたびに、像の輪郭がはっきりしていくのを感じる。
現実に根付いていない軽薄な像は、けれども実際に葛藤する人々と同じ言葉を排出している。
表層だけをなぞった模造品を作る作業に、なにやら侵略的な悦楽を感じる自分がいた。
[連載小説]像に溺れる
#0 像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭