#16 仮定法の世界――像に溺れる

家に帰り、買った本を読もうとしたが、それではなんだか古本屋の彼女に執着しているみたいで恰好がつかないように思い、普段通り英文法を勉強することにした。

椅子に座り、文法のテキストを取り出す。
スマートホンの電源を落とす。
自分の顔が真っ黒な画面に映って、肉体の重みをもたない「向こう側」へと引き込まれていく。
いつのまにか世界は反転して、目の前のあらゆるものが像として映る。

 

仮定法のページを開く。
時間の軸を少しズラせば、像たちはさまざまなパラレルワールドに飛び込んでいくことができる。

現実世界と並行するそれらの世界は、いつかどこかのポイントで「この世界」から分岐したものだ。
無数に存在する分岐点の一つひとつを、ぼくらはそれぞれ異なるパラレルワールドの入口として設定しうる。

黒いデメキンが早々に死んでいなかった世界では、ぼくは適応ということに悩むことなく生きていたはずだ。
ヤナガワサンが留年していなかったら、ぼくは自分のコンプレックスに直面することなく高校生活を送れていたはずだ。
パラレルワールドについて考えるとき、ぼくらはその「入口」まで想像の時間を巻き戻す。

この巻き戻しの作業が、時制を一つ遡らせるルールの根っこにあるのだと思う。
任意のセーブポイントまで戻って、異なる世界をやり直す想像上の作業。
それはなにか、空疎だけれども満ち足りているような、なつかしい感触を頭の中でなぞるような作業だ。

無数の分岐点からなるパラレルワールドを想定するという意味で、それは数学の確率と似た話にも思えるけれど、本質的にはまったく異なっている。
確率は偶然生じるものについて必然性をもって語るためのものだけれども、仮定法は偶然生じる現実を諦めながら、それを想像的に乗り越えようとする働きだ。

それは現実に向き合う態度として明らかに捻じれていて、その捻じれの分だけ時制がズラされているとも考えられる。
しかしそうなると、現実逃避の度合いによって時間の巻き戻り具合も変わってしまうことになるから、文法的にはおかしなことになってしまう。

 

ぼくの内面世界のなかで、仮定法はさまざまな「ありえた」を実現してくれる。
ゲームであればセーブを忘れると同じポイントに戻ることはできないけれど、仮定法は後から自由にセーブポイントを作成することができるのであり、あらゆる分岐点を現在の側から作り出すことができる。

ぼくがヤナガワサンのようであったパラレルワールドを、けれどもぼくは想像することができない。
どこの分岐点まで遡れば、それがありうるものになるかがわからないからだ。
パラレルワールドはぼく自身の想像力を超えて構築されることはなく、そもそもぼくはヤナガワサンの人格がどのようにして形成されたのか、何一つ知らないでいるのだ。

一通り勉強を終え、リビングで「法学入門」を読んでいると、母が帰ってきた。

「珍しいじゃない、何読んでるの?」

買い物袋をテーブルの上に置きながら、母がぼくの手元を覗き込んでくる。
その所作自体も珍しく、ぼくは気味悪く思いながら答える。

「法学の入門テキスト」
「あら、それならお金出すわよ」

母の声のトーンが少し上がった。
母は財布から一万円札を出し、ぼくに渡す。
不気味な母に、ぼくの声のトーンは下がる。

「700円だったけど」
「いいわよ、また買いたくなったときに使いなさい。法律系の本は高いのも多いでしょう」

母の瞳に、弁護士や検察官となったぼくの像が映っている気がする。
目を逸らしながら受け取ると、母は袋から弁当のパックを取り出しはじめる。

「カツ丼と、サラダでいい?」

メニューの是非を問われることなど普段はまったくなかった。
胸が悪くなるけれど、反抗するのもなにか、思春期の親子像のうちにすっぽり収まってしまうようで、ぼくは黙ってうなずく。

「温めるね」

そう言って、母はカツ丼をレンジの方に持って行ってしまった。
ぼくが普段、弁当を温めずに食べていることに気づいていないのだろうか。
弁当を温めるのが嫌い、とわざわざ主張するのも惨めな気がして、法学入門を読み進めようとするが、レンジの唸る音に意識が取り込まれてしまって集中できない。

耳に刺さる電子音が鳴りやまないうちに母はカツ丼を取り出し、甲斐甲斐しくぼくの前に置いた。

「じゃ、ママもう少し仕事するから。勉強頑張ってね、テストもそろそろでしょう」

ママ、という単語に食欲が一気に減退する。
母の呼称を、口にしなくなって数年が経つ。
中学に入るあたりでその呼称が明確に気持ち悪くなり、けれども呼称を変えることにも抵抗があり、そのまま結局、母に呼びかけることがなくなる。
思春期の男子の典型そのものだ。
どこかの地点で、「母ちゃん」なり「母さん」なり、振り絞ってでも読んでおけばよかったと思うけれども、仮定法の「入口」を、どこに設定すればいいのかよくわからなかった。

げんなりしながらカツ丼をほおばっていると、いつのまにか「法学入門」をめぐる母の反応と、古本屋の女性の反応とを比べている自分に気づく。
母が見ていたのは希望的観測に満ちたぼくの将来像だったけれども、あの女性は現在のぼく自身に関心を寄せてくれていたのではないだろうか。

いまここにあるぼくを見てくれる人は、ぼくの身の回りにほとんど存在しない気がした。
寄る辺ない、というのはこういうことだろうか。
足元が覚束ない感じがして、自分が何なのか、何一つ手掛かりがなくなってしまったように思う。

「友だちいねーの?」

その通りだった。
ぼくは世界の外側で空転する、歯の欠けた歯車みたいだ。


[連載小説]像に溺れる
#0  像に溺れる
#1 「適応」の行方
#2 場違いなオレンジ
#3「孤立」という状況
#4「像」の世界
#5 内面世界による救済
#6 注釈を加えているもの
#7 像の交錯
#8 淘汰されるべきもの
#9 空虚な像
#10 SNSの亡霊
#11 作られた像
#12 脱色と脱臭
#13 標本としての像
#14 抽象と具体の接点
#15 内面と世界の間の通路
#16 仮定法の世界

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