【白樺派】武者小路実篤の衝撃と限界——反自然主義文学の潮流⑥

自然主義と耽美派・白樺派という反自然主義の構図が中心となっていた大正前期の文壇。
反自然主義文学の中でも耽美派を取り上げた前回に続き、今回はもう一方の反自然主義、白樺派を追いかけていきます。

大正文学の始まりを告げる白樺派

明治43年、雑誌『三田文学』第二次『新思潮』創刊と時を同じくして、雑誌『白樺』が創刊されます。

武者小路実篤を筆頭に学習院出身の青年たちを中心とした、この雑誌『白樺』を拠点にしたグループが白樺派です。

『白樺』創刊号は武者小路実篤「『それから』に就て」と題する評論を巻頭に掲げ、白樺派の登場を宣言するとともに、白樺派の姿勢を表明するところから始まりました。
そこでは夏目漱石の「それから」を「『運河』のごとき作品」と評した上で「自分は運河よりも自然の河を愛する」と述べ、さらには

いまや新しい世代であるわれわれは、自己実現こそ善だと考える

と、武者小路実篤の文学的姿勢が表現されており、こうした「自然」「自己実現」が彼自身や白樺派の作品の随所に表れていくことになります。

このようにして産声を上げた雑誌『白樺』と白樺派は、志賀直哉、有島武郎、なが善郎よしろう、里見とん、柳宗悦、有島生馬、倉田百三などとともに大正前期の文壇に強烈な印象を与えつつ、有島武郎の死とともに終わりを迎えていくのでした。

 

『白樺』創刊と「時代閉塞の現状」

雑誌『白樺』が創刊された明治43年に執筆された(公開は作者の死後)批評に、石川啄木「時代閉塞の現状」があります。

啄木の思惑を垣間見られる箇所は他にもたくさんあるのですが、ここでは彼が当時の時代状況を見つめた一節を紹介します。

時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代からほうしょくぐちの心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育をける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級がぜんその数を増しつつある。今やどんな僻村へきそんへ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

このように啄木は当時の日本の現状を深く見つめ、この批評文を通して明治政府の強権政治に対して危機感を表明していきました。

 

白樺派のエリート性

大逆事件や日韓併合など、政府が強権を発動していく明治の末に「閉塞感」を啄木が抱いていた一方で、白樺派の青年たちは自我、自己実現を追求することができました。

それはなぜか。

彼らのいわば「エリート性」がそうさせたのです。

当時の日本で最も特権的だった学習院出身の彼らは、生まれながらにしてエリートの側におり、自分の生活(生存)について心配する必要はありませんでした。
言い換えるなら、閉塞感を強める社会と闘いながら何とか必死に生きていかねばならないという世界ではなかった、社会の影響を受ける必要がなかったと言えるでしょう。

そのような環境だったからこそ、白樺派の青年たちは徹底した自己肯定に基づき、自我の自由を追求していくことが可能でした。

 

新時代の旗手となった武者小路実篤


社会の醜悪な部分までありのままを描き取ろうとする自然主義に対し、自己肯定・理想主義を貫く白樺派。

後に芥川龍之介が「文壇の天窓を開け放つて、さわやかな空気を入れ」たと評した彼ら白樺派の中心を、まず担ったのが武者小路実篤でした。

小説「お目出たき人」(明治44年)「友情」(大正9年刊行)などの代表作を残した彼は、

自分は自我を何物の犠牲にしようとも思はない。寧ろ自我のために何物をも犠牲にしようと思ってゐる

(武者小路実篤「自分の筆でする仕事」)

と自ら述べているように、トルストイの影響も受けながら徹底した自己肯定、強烈な自己主張をしていくことになります。

 

「新しき村」の設立

白樺派の活動の中で興味深いものの一つがこの「新しき村」の設立。
これは武者小路実篤をはじめとする白樺派の青年たちが理想郷を建設すべく、宮崎県で開かれた村でした。

この計画は後にダムの建設で一部が水没することになり、その中心を埼玉県に移しますが、現在でもその精神を受け継いだ活動は続いています。

武者小路実篤、ひいては白樺派はこのように徹底して自己実現、理想を追求していく姿勢を貫いていきます。

 

武者小路実篤の限界

理想を追求する姿勢をその文学作品のみならず、「新しき村」の設立という実践を通しても示していた武者小路実篤。
しかしながら、自我に目を向け続けるその作風には限界があったことも否定できません。

こうして、白樺派の芸術の確立は志賀直哉の手に委ねられたのでした。


「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤
第11回 【白樺派】武者小路実篤の衝撃と限界——反自然主義文学の潮流⑥
第12回 白樺派の芸術を確立した「小説の神様」志賀直哉——反自然主義文学の潮流⑦

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