白樺派の芸術を確立した「小説の神様」志賀直哉——反自然主義文学の潮流⑦

武者小路実篤を筆頭に文壇に現れた白樺派。
前回の記事の最後で触れたように、その芸術が確立されるのは志賀直哉によってでした。

今回は、白樺派の中でも志賀直哉に焦点を当てていきたいと思います。

白樺派の芸術を確立した「小説の神様」志賀直哉

武者小路実篤が示した白樺派の理論を実践に移して芸術性を確立したのが、後に「小説の神様」と称されることとなる志賀直哉です。

明治から昭和にかけて活躍した彼は特に大正期に多くの作品を発表します。
戦時下は筆を断ったものの戦後再び活動を再開し、1969(昭和44)年の随筆「ナイルの水の一滴」を発表した2年半後、1971年10月21日に88年の生涯を終えました。

 

父との不和

1883(明治16)年、父直温が第一銀行石巻支店で勤務していたために宮城県石巻市で誕生した志賀直哉。
彼が2歳の時、父が銀行を辞職したことで東京に移り、祖父母の手で育てられることになります。

その後も父が金沢で単身赴任生活を送ったこともあり、幼少期の志賀直哉は父親と離れた生活を送ります。
そんな彼と父親の関係は『和解』という作品を通してもよく語られるように、決して良好なものとは言えませんでした。

志賀直哉の記憶の中に、父との不和へとつながるであろう要因は様々見ることができますが、中でも内村鑑三との出会いと足尾銅山鉱毒事件、彼の結婚に関する衝突を見ていきましょう。

 

内村鑑三との出会い

志賀直哉が17歳の1901(明治34)年の夏、彼は内村鑑三が主催する聖書講義の会にはじめて出席します。

そこで彼は内村鑑三の人格や風貌に惹かれ、以後そのもとを離れる7年間にわたって内村鑑三を通じてキリスト教の教えに触れることになります。

内村鑑三については、後に志賀直哉自身が「内村鑑三先生の想い出」という随筆の冒頭で深い影響を受けた人物として名をあげ、さらには同作の中で次のように述べています。

正しきものを憧れ、不正虚偽を憎む気持ちを先生によってひき出された

(「内村鑑三先生の想い出」)

このように、師事するうちに彼は内村鑑三から強い影響を受けていたのです。

 

足尾銅山鉱毒事件

志賀直哉が内村鑑三と出会った1901(明治34)年当時、足尾銅山鉱毒事件の反対運動はピークに達しつつありました。

足尾銅山鉱毒事件とは、当時日本最大の銅山であった足尾銅山から放出された鉱毒によって渡瀬川流域の農地が汚染され、洪水とともに農業に甚大な被害を及ぼしたこの事件は、1891(明治24)年に地元選出の衆議院議員田中正造によって帝国議会で取り上げられて以来、社会問題と化していました。

ちなみに、志賀直哉が内村鑑三のもとに通い始めた1901(明治34)年には、田中正造が明治天皇に直訴するという事件まで起きています。

そんな中、内村鑑三は片山潜らとともに、足尾銅山の経営者古川市兵衛と明治政府を糾弾する演説会を行います。

これに感化されたのが志賀直哉。
彼は、学習院の友人たちとともに鉱毒被害地の視察を計画したのです。

ところがここで問題が生じます。

実は、志賀直哉の祖父は足尾銅山の経営に関わっていたことがあったのです。
そこで、父直温は経営者である古河家への配慮と保身から直哉の計画に猛反対し、二人は激論することになりました。

結果的に直哉は父に対する軽蔑の情を抱かずにはいられなくなり、父も直哉に対して、より高圧的になっていったのです。

 

志賀直哉の婚約

1907(明治40)年、ついに二人の決裂を決定づける事件が起こります。
志賀直哉が家の女中と結婚を約束したのです。

志賀家に波紋を飛んだこの事件に際し、父は女中を捨てるか家を出るかの二択を直哉に迫ります。

結果、この結婚は実現することなく幕を閉じるのですが、この一件が父との決定的な不和、そして師である内村鑑三との別れに繋がっていきました。

 

父との『和解』

このように、志賀直哉はその幼少期から父との不和を抱えていました。
その詳細は1912(大正元)年『大津順吉』、1920(大正9)年『或る男、其の姉の死』において語られ、後述する『暗夜行路』においてもその影響が見られます。

そんな彼が父との和解を遂げたのが1917(大正6)年8月。
『和解』はこの父との和解の過程を主人公「順吉」の姿に託して描いていった作品です。

和解を遂げるまでの心理を鋭い洞察力で描き出すのみならず、和解を遂げた喜びや興奮、感動を読み取ることもできる作品となっています。

こんな事を云っている内に父は泣き出した。自分も泣き出した。二人はもう何も云わなかった、自分の後ろで叔父が一人何か云い出したが、その内叔父も声を挙げて泣き出した。

(『和解』)

こうして、志賀直哉と父との長い不和は終わりを告げるのです。

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小説家としての志賀直哉


志賀直哉が内村鑑三に別れを告げた1908(明治41)年夏、彼は友人たちとともに『白樺』の前身となる回覧雑誌を始めます。
ここからは、小説家としての志賀直哉をざっと見ていくことにしましょう。

 

自我至上主義

武者小路実篤を見た前回も紹介したように、白樺派の青年たちは自我、自己実現を追求していたところにその特徴がありました。

そして、「自然至上主義」と評されることがあるほど、志賀直哉も自我の追求に重きを置いていました。
それは、彼自身が明治45年3月13日の日記の中で

自分の自由を得る為めには他人をかへりみまい。而して自分の自由を得んが為めに他人の自由を尊重しやう。他人の自由を尊重しないと自分の自由をさまたげられる。二つが矛盾すれば、他人の自由を圧しやうとしやう。

(『志賀直哉全集』第10巻より。旧字は新字に改めた)

と述べていることからも窺えます。
作品の読みには揺れがあるものの、その姿勢は1913(大正2)年の『范の犯罪』で強烈に発揮されています。

『范の犯罪』
奇術師「范」が、ナイフを投げる演芸中に妻の頸動脈を切断して殺すという事件が起こる。
事件直後の范は自分が故意に妻を殺したと感じ、どうしても自分は無罪にならなければならぬと決心して過失に見せかけようと考えるが、次第にこれが故意の殺人なのか過失なのか自分でも分からなくなる。
范は最終的に、裁判官に対し「分からない」ということを正直に告げ、無罪を勝ち取った。

 

自我の沈静化

『范の犯罪』で高まりを見せた彼の自我はその後、事故の療養のために訪れた城崎温泉を描いた1917(大正6)年『城の崎にて』では落ち着いていくことになります。

『城の崎にて』
山手線の電車にはねられ怪我をした後養生に兵庫県の城崎温泉を訪れた「自分」はそこで蜂や鼠、そして自らが投げた石によって死に至らしめてしまったイモリの姿を通して死について、そして救われた「自分」について様々な思いを巡らせる。
私小説の代表的な作品として名高い。

ちなみに、この城崎滞在中に志賀直哉何宿泊していた旅館「三木屋」は現在でも営業しています。

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唯一の長編小説『暗夜行路』


『城の崎にて』において、生死について思いを巡らせる上で「自然」が大きな鍵を握っているわけですが、それは以降の志賀直哉の作品にも現れています。
志賀直哉唯一の長編小説で、大岡昇平が「近代文学の最高傑作」とも評した『暗夜行路』を見てみましょう。

『暗夜行路』
主人公である時任謙作ときとうけんさくは、祖父と母との過失の結果生まれた子であり、母の死後は祖父に引きとられて成長した。
後に謙作は直子と結婚し、穏やかな日々を過ごしていたが、謙作の留守中に直子がいとこと過ちを犯したことで苦悩することとなる。
こうした過酷な運命を引き受けながらも、その運命を切り開いていく姿が描き出される志賀直哉唯一の長編小説。

この『暗夜行路』の中でも、読者の印象に強烈に残る自然の描写があります。

明け方の風物の変化は非常に早かった。(中略)影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、ちょうど引網びきあみのように手繰たぐられて来た。地をめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有けうの事とし、それから謙作は或る感動を受けた。
(『暗夜行路』(岩波文庫)より)

この大山の描写は、岩波文庫版で1ページ全体に渡っています。
この実に見事な、圧巻の描写の後、物語はここからクライマックスに向かっていくことになるのです。

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おわりに——志賀直哉の主な作品

志賀直哉1971(昭和46)年に亡くなるまで、その88年の生涯の中で数多くの作品を残しており、ここではその一部の作品名を紹介するに留めておきます。

「網走まで」
「剃刀」
「大津順吉」
「正義派」
「クローディアスの日記」
「范の犯罪」
「児を盗む話」
「城の崎にて」
「和解」
「或る朝」
「或る男、其姉の死」
「小僧の神様」
「焚火」
「暗夜行路」
「灰色の月」

他にも様々な作品がありますが、その多くが短編・中編ですし、書店で見かけた際には興味のあるものを手に取ってみるのはいかがでしょうか。
次回、白樺派の中で忘れてはならないもう一人の存在、有島武郎を見ていきたいと思います。


「大学受験の近現代文学史を攻略する」記事一覧
第1回 明治初期の文学
第2回 写実主義と擬古典主義①
第3回 写実主義と議古典主義②
第4回 浪漫主義から自然主義文学へ――明治30年代の文学
第5回 自然主義文学の隆盛と衰退——島崎藤村と田山花袋
第6回 夏目漱石の登場——反自然主義文学の潮流①
第7回 低徊趣味と漱石が抱く近代の問題意識——反自然主義文学の潮流②
第8回 夏目漱石が描く「生きるべき時代の喪失」——反自然主義文学の潮流③
第9回 体制側に留まる諦念の文学者森鴎外——反自然主義文学の潮流④
第10回 耽美主義文学——反自然主義文学の潮流⑤
第11回 【白樺派】武者小路実篤の衝撃と限界——反自然主義文学の潮流⑥
第12回 白樺派の芸術を確立した「小説の神様」志賀直哉——反自然主義文学の潮流⑦

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