江戸時代の学問・思想[前編]――佐京由悠の日本文化史重要ポイント

お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
今回から2回にわたり、江戸時代の学問・思想の分野を概観してみようと思います。

江戸時代の文化は

①寛永文化
②元禄文化
③宝暦・天明期の文化
④化政文化

に大きく分けられることは以前の記事で説明しました。
この時期区分に従って、学問・思想の流れを、前編の今日は特に儒学の流れを見ていきます。

江戸時代の学問・思想の「流れ」を掴む


大学受験日本史でも、この分野は苦手な人が多い印象です。
単純に登場人物と著作物が多く、「覚えること」の大変さが先行しているからでしょう。

もちろん、ほかの分野・科目と同様に知らなければおハナシにならない「暗記」事項というのはあります。
ただ、同時にこのシリーズで何度も申し上げている通り、文化史にも「流れ」があります。
もっと丁寧に言うと、文化はその時代の政治・経済・社会の影響を受けながら推移していきます。

本記事ではそれを強く意識して、今日は江戸時代の学問・思想の「流れ」をツカみ、覚えること=知識の習得の手助けとすることを目的にしています。

 

近世儒学の流れ


まずは儒学についてみていきましょう。

 

①寛永期の文化

寛永とは、3代家光の治世を中心とした元号でした。
寛永期の文化は、桃山文化を引き継ぎ、また次の元禄文化につながる新傾向を示した文化です。

▼具体的には「寛永期の文化」をご覧ください。

 

近世儒学の祖、藤原惺窩

さて、近世儒学の祖とされるのが藤原惺窩です。

彼はもともと京都相国寺禅僧ですが、僧をやめ(還俗という)、儒学のなかの特に朱子学の啓蒙に努めることとなります。

▼相国寺についてはコチラで触れています。

五山僧に学ばれていた朱子学は君臣・父子の別を重視して上下関係を重んじるものであったため、これが江戸幕府や藩にも受け入れられていくわけです。
惺窩の門人、林羅山徳川家康に仕え、またこの子孫も幕府に代々仕えていくこととなります。

ちなみに、朱子学のなかでもこの藤原惺窩からの流れを「京学」といいます。
これに対し、室町時代の南村梅軒からの流れを「南学」といい、野中兼山山崎闇斎といった人物を輩出します。

 

②元禄文化


元禄とは、5代綱吉の治世を中心とした元号。
元禄文化は上方町人を担い手の中心とした現実主義的な文化でしたね。

▼具体的にはコチラをどうぞ。

この時期、政治史的には4代家綱より始まる文治政治の時期です。

文治政治というのは、儒教的徳治主義に基づく政治という意味。
初代将軍徳川家康から3代将軍家光までの時代は「武断政治」といって、大名統制が厳しい時代でした。

しかし、この厳しい統制の弊害が起こってしまうわけです。詳しくはコチラをご参照ください。

そこで、4代将軍家綱の時代より、儒学によって政治の安定をはかる文治政治の時代となります。

5代将軍綱吉のときの武家諸法度にも「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と忠孝(君主に対する忠、父祖に対する孝)、礼儀を重視する姿勢がうかがえます。

 

木門派の祖、木下順庵

ここで取り上げたいのが木下順庵という人物。

京都生まれの朱子学者で、徳川綱吉の侍講(将軍や天皇の儒学の先生)をつとめ、門人をたくさん輩出し、その門下生たちのことを特に木門派(ぼくもんは)と呼びます。

例えば、6・7代将軍の侍講をつとめ、自ら政治の中心ともなり「正徳の治」を推進した新井白石や、8代吉宗の信任を得て明末清初の道徳書である『六諭衍義』の和訳(『六諭衍義大意』)を行った室鳩巣対馬藩に仕え対朝鮮外交に従事した雨森芳洲などです。

 

陽明学者の登場

また朱子学以外の学派も現れてきます。

中江藤樹やその門人の熊沢蕃山は、明の王陽明が始めた陽明学を学びました。

朱子学が天下の事物を客観的にきわめることを重視したのに対し、陽明学は具体的な行動を重視しました。
時に現実を批判し、その矛盾を正そうとするという「革新」性を持っており、幕府に警戒されることもありました。

熊沢蕃山は岡山藩に仕えますが、『大学或問』などで幕政を批判し、下総古河に幽閉されたというところからも理解ができると思います。

また、19世紀に大坂町奉行に対して武装蜂起した大塩平八郎も陽明学者でした。

 

学派はどこから?


儒学は儒学なのになぜこのようにいろいろな学派に分かれていくのだろう、と思ったことはないでしょうか。
その答えとなる一つの例を下に示しますね。

たとえば朱子学の祖である朱熹は『大学』にある「格物致知」

「知を致すには物に格(いた)るに在り」

と解釈し、自己の知識を最大限に広めるには、客観的な事物に即してその道理を極めることが大切だとしました。

その一方で陽明学の祖である王陽明

「知を致すは物を格(ただ)すに在り」

と読んで、生まれつき備わっている良知を明らかにして、天理を悟ることが、すなわち自己の意思が発現した日常の万事の善悪を正すことであると解釈したのです。

「学派」はこのような解釈の違いによっても分かれていくのです。

 

古典に立ち返ろうとする古学派、古文辞学派

そこで!
朱子学、陽明学のように「解釈」された儒学ではなく、孔子・孟子の古典に直接立ち返ろうとする学派も現れるのです。

これを古学派といい、さらにそのなかに山鹿素行聖学伊藤仁斎東涯堀川学派、時代が少しくだって荻生徂徠古文辞学派があります。

 

③宝暦・天明期~④化政文化

18世紀後半以降になると、折衷学派、さらにそのなかから考証学派が盛んになります。

折衷学派というのは、その名からもわかるように諸学を折衷(=いろいろなものからいいところをとり、一つに合わせること)したものです。

朱子学、陽明学をはじめ、伊藤仁斎や荻生徂徠などの解釈を取捨選択し、聖人の真意に達しようとしたものです。

 

折衷学派の中から考証学派が盛んに

考証学派はさらにその「折衷学派」のなかから、客観的な文献実証を強調する動きとして現れました。

これは同時期の国学などにおける古典研究にも影響を与えていきます。

というわけで次回はその国学など、儒学以外の学問をみてみましょうね。

 

おわりに

以上、江戸時代の儒学の流れを概観してみました。

このシリーズは、

江戸時代の文化史概説(前回まで)→学問・思想儒学編(今回)→学問・思想儒学以外編(次回)

という「大→小」という構成になっていますので、無理なく当該分野の大枠がつかみやすくなっています。

ぜひ、この記事を読んだあとはご自身の普段使いの教科書・テキストやノートに立ち返って知識の習得に努めてくださいね!

次回は江戸時代ラスト、学問・思想の後編・儒学以外の学問を扱います!
それではまた!


「佐京由悠の日本文化史重要ポイント」
第1回 初の仏教文化、飛鳥文化
第2回 国家仏教の形成と白鳳文化
第3回 鎮護国家思想と天平文化
第4回 弘仁・貞観文化
第5回 国風文化(前編)
第6回 国風文化(後編)
第7回 院政期の文化
第8回 鎌倉文化(前編)
第9回 鎌倉文化(後編)
第10回 室町文化(前編)
第11回 室町文化(後編)
第12回 桃山文化
第13回 寛永期の文化
第14回 元禄文化
第15回 宝暦・天明期の文化
第16回 化政文化
第17回 江戸時代の学問・思想[前編]

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