近代文化⑥〈思想〉後編【佐京由悠の日本文化史重要ポイント】

お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
今日は近代文化の6回目、社会主義・国家主義思想のそれぞれの昭和戦前期における展開を追っていきましょう。

▼前回の記事はコチラ

近代思想の1回目では明治期における国権論の展開と社会主義の流入について触れました。
▼近代思想の1回目はコチラ

今回はこれを踏まえ、それぞれの「その後」について見ていきましょう。

社会主義思想の展開:アナ=ボル論争


1920年、日本社会主義同盟が結成されます。
日本社会主義同盟は、労働運動家・学生運動家など資本主義に反対する者たちを結集して作られた団体です。

1910~11年の大逆事件以降、「冬の時代」にあった社会主義ですが、第一次世界大戦やロシア革命、米騒動などを背景に社会運動が勃興するなかで社会主義者たちもその運動を再開してきました。

▼大逆事件についてはコチラ

しかし、この日本社会主義同盟、いろいろな出自をもつ運動家たちが「結集」したものであったため、内部対立が起こります。これがアナ=ボル論争という論争です。

「アナキズム」と「ボルシェビズム」との論争

アナ=ボル論争とは、「アナキズム」(厳密にはアナルコ=サンディカリズム)と「ボルシェビズム」との論争で、労働組合の組織論やロシア革命の評価をめぐる論争です。

  • アナキズム
    「無政府主義」と訳される。国家権力を含むすべての権力を否定して自由な人間の自由な連合による理想社会をめざす思想。
  • ボルシェビズム
    レーニンの指導するロシア社会民主労働党多数派を模範とし、ロシア革命を支持する立場。当時のマルクス主義の代表。

堺利彦山川均(=「ボル」)は労働戦線を統一するという中央集権的な組織論をとります。

そしてそのためには社会主義政党の結成する必要があり、実際これを背景に1922年に日本共産党が結成されます。

その一方、大杉栄ら(=「アナ」)は権力を否定するアナキズムの立場から労働組合による「直接行動」と「自由連合」を主張します。

つまり、大杉らアナキストにとってはボルシェビズムが進めようとしている労働戦線の統一すらも彼らの拒否する権力の一つなのです。

「ボル派」と「アナ派」の動き

と、まぁこのような論争が生じたわけですが、「ボル」派は先述の通り1922年に革命政党としての日本共産党を非合法下に結成します。

一方、「アナ」派の大杉はベルリン国際アナキスト大会に出席しようと密出国し、その後パリでのメーデー集会で演説をして強制送還されます。
そして1923年、関東大震災の混乱のなか、恋仲にあった伊藤野枝、甥の橘宗一(当時6歳)とともに憲兵大尉甘粕正彦に殺害されます。

ちなみにこのあと甘粕は懲役10年の実刑判決を受けますが3年で出所し、満州へと向かいます。
これについて以前書いたものがあるので、ご興味ある方はどうぞ。

さて、大杉亡きあとアナキズムは衰退していきますが、このあとこれに代わってもう一つの論争が起こります。

社会主義思想の展開:日本資本主義論争

日本資本主義論争とは1927年頃から約10年にわたって繰り広げられた「講座派」と「労農派」の、おもに明治維新の評価などをめぐる論争です。

  • 講座派
    岩波書店刊『日本資本主義発達史講座』の執筆メンバーである野呂栄太郎らを中心としたグループ。
    日本共産党の立場を支持する学者たちで、明治維新を天皇制=絶対主義の再編とみて、ブルジョワ民主主義革命→社会主義革命の二段階革命を主張する立場。
  • 労農派
    雑誌『労農』の同人を中心とし、堺利彦、山川均大内兵衛有沢広巳らのグループ。
    日本共産党と対立し、明治維新は不徹底ながらブルジョワ革命が達成されたとして、このあとは民主主義的変革を伴う社会主義革命をおこなうべしという一段階革命を主張する立場。

この議論の前提として、①絶対主義の成立→②ブルジョワ民主主義革命→(資本家たちによる民主主義社会の実現)→③社会主義革命→(社会主義の実現)という考え方があります。

講座派は明治維新という出来事を①であるとして、次になすべきは②と③であると主張し、労農派は明治維新を②と捉えて次になすべきは③のみであると主張しているのです。

▼日本資本主義論争についてはコチラ

国家主義思想の展開

さて、一方で国家主義思想はどのように展開したのでしょうか。

国家主義とは、そもそも国家という社会集団に最高価値をおき、個人の利益よりも国家の利益を優先する考えでした。

こうした考え方は昭和期になると、従来とは異なった方向に変化していきます。

格差社会の顕在化に伴う閉塞感

第一次世界大戦後、国際的にはベルサイユ体制、ワシントン体制と相次いで国際秩序の再編が行われてきました。国内的にも大正デモクラシーを謳歌してきましたよね。

しかし、1920年代も後半になると中国での北伐、国内での恐慌(金融恐慌や、世界恐慌と金解禁による昭和恐慌)などに伴い徐々にそうした体制はゆらいでいきました。そうしたなかで格差社会が顕在化し、これに伴って社会や権力に対する閉塞感などが徐々に増していきます。

――どうしてこんな社会になったのか。こんな日本に誰がしたのか。

国家主義者たちはそこに政党と財閥の癒着を見ます。

国家主義者たちが見た「政党と財閥の癒着」

つまり、我が大日本帝国は天皇を頂点とし、臣民たる我々はみな平等であるはずなのに、国家権力を握る政党政治家(1924年から32年までは憲政の常道という政党内閣の慣行がつづいていた)と巨大な富を操る財閥の人的な癒着が、こうした社会の矛盾を生み出しているというのです。

彼らがこう考えるのも当然です。

たとえば金解禁を行った浜口内閣(立憲民政党)の蔵相井上準之助は財界の要求である金解禁による為替相場の安定とこれによる貿易の伸長を果たすため、国内では産業合理化(人員整理などにより失業者が増える)や緊縮財政(農産物価格の下落により農村に打撃)を行い、いざこれを断行すると世界恐慌の影響で輸出は伸びず、昭和恐慌を生み出します。

この未曾有の恐慌では農村では娘の身売り、欠食児童がみられるなかで、政党と結びついた財閥は金輸出再禁止を見込んでせっせとドル買いを行っているのです。

▼金解禁・金輸出再禁止についてはコチラ

国家社会主義――国家改造運動

こうした状況下で、国家主義者たちは「国家改造運動」をはじめます。
今回はそのなかで国家社会主義をとりあげてみましょう。

国家社会主義とは、国家の力で資本主義の弊害を克服しようとする考え方です。
1919年にすでに結成されていた猶存社の中心人物であった大川周明や北一輝らが代表的な論客です。
(*ただし猶存社は北と大川の対立により1923年に解散)

北一輝『日本改造法案大綱』(1923年)はニ・二六事件の理論的支柱となったことでも知られています。

「革新」性を帯びた国家主義

ここで気づいたでしょうか。
国家改造運動とは、国家主義なのに、「革新」的な運動であるということに。

従来とは異なった方向へ、といったのはまさにこの意味においてです。

つまり、国家主義は単に国家や民族を称揚するのではなく、自らが最高価値を認めている国家が他ならぬ国家権力を握る者たちによって蹂躙されている姿を見るとき、これを「改造」しようという運動を開始するのです。

いま述べた国家社会主義のほか、生産活動の根本は農業であるという農本主義、反西洋思想を表現しようとする日本主義などが共鳴しながら国家改造運動を展開していきます。農本主義は五・一五事件のところで名前が登場しますね。

▼五・一五事件についてはコチラ

超国家主義、そしてファシズムへ

国家主義は以上のような「革新」性を帯びる一方、自らを世界の国々と比較にならない価値をもつとする極端なナショナリズム・超国家主義というかたちでも現れます。

そして、資本主義体制の行き詰まりを独裁体制によって打破しようとするファシズムへとつながっていくのです。

「近代文化〈思想〉編」おわりに


いかがでしたか。
3回にわたって近代思想の流れをお話ししました。

政治史――いわゆる通史や他分野とのつながりが深いこと、近代文化特有の「難解さ」をもつ分野であることから他の分野よりも多くの紙幅を割いてお話ししました。

次回は演劇の歴史を見ていきましょう!

ではまた。

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