第二代 黒田清隆内閣【内閣で駆け抜ける日本近現代史】

前回のおさらい

1885年、内閣制度が発足し、初代内閣総理大臣に長州出身の伊藤博文が選ばれました。

第一次伊藤博文内閣では外務大臣に井上馨、文部大臣に森有礼、内務大臣に山県有朋などのメンバーを据え、いわゆる薩長藩閥政府がスタートしたわけです。

この時代には内閣制度、学校令、市制・町村制などの制度的な枠組みが続々と構築されていきましたが、「統治」という意味で非常に重要な“あるもの”がまだできていませんでした。

伊藤博文は1888年4月、その“あるもの”に関わる役職に任じられ、それによって内閣が交代することとなります。

そこで、第二代・黒田清隆内閣の登場です!早速見ていきましょう!

第二代内閣総理大臣・黒田清隆

第2代内閣総理大臣 黒田清隆

1888年4月、大日本帝国憲法の草案が完成し、伊藤博文は枢密院議長となってその草案審議に全力を注ぐために内閣総理大臣の辞職を申し出ました。

枢密院
憲法草案審議のために設置された機関で、伊藤博文が初代議長となった。
大日本帝国憲法が制定されたのちは天皇の最高諮問機関として規定され(第56条)、1947年の日本国憲法施行の際に廃止。

後継首相には薩摩藩出身の黒田清隆が推薦され、第一次伊藤内閣の閣僚をおおむね引きつぐかたちで組閣することとなりました。

黒田清隆(1840-1900)
薩摩藩出身。下級藩士の家に生まれ、幕末の動乱のなかにあっては西郷隆盛らを助けて薩長連合の成立にも携わった。また、戊辰戦争においては榎本武揚を降伏させ、助命にも奔走した。榎本はそのあと開拓使に出仕して今度は黒田を助けることにもなる。

 

主な閣僚
  • 総理  黒田清隆(鹿児島、伯爵、陸軍中将)
  • 外務  大隈重信(佐賀、伯爵)
  • 内務  山県有朋(山口、伯爵、陸軍中将)
  • 文部  森有礼(鹿児島、子爵)→(臨時兼任)大山巌(鹿児島、伯爵、陸軍中将)→榎本武揚(幕臣、子爵、海軍中将)
  • 逓信  榎本武揚→後藤象二郎(高知、伯爵)

文部大臣と逓信大臣に途中で変更が生じていますね。これはどういう意味でしょうか。
それは記事の後半で!

主なできごと

(1889.2.11)大日本帝国憲法発布
(1889.2.11)森有礼文相殺害 *死亡は翌日
(1889.2.11)衆議院議員選挙法
(1889.2.11)貴族院令
(1889.2.12)超然主義演説
(1889.7.1)東海道線全通:新橋―神戸間
*帝国議会開会(1890年)に間に合っていることに注目
(1889.10.18)大隈重信襲撃→(10.24)内閣総辞職

もう2.11ばっかり!
それもそのはず、この2月11日というのは、現在では建国記念日ですが、当時の呼称は「紀元節」。
初代天皇・神武天皇の即位の日であるということにして1873年に制定された祭日の一つです。

紀元節
1872年の太政官布告で祝日を制定し、1873年に、神武天皇即位の日は新暦の2月11日にあたるとして「紀元節」としたもの。元日の1月1日=新年節、明治天皇の誕生日である11月3日=天長節などとともに定められた。紀元節は1948年にGHQの指示で廃止されるも、1966年に「建国記念の日」として復活。

 

欽定憲法「大日本帝国憲法」の制定

この「よき日」に制定されたのが、大日本帝国憲法。
伊藤博文を中心として審議が重ねられ、練り上げられた憲法です。

大日本帝国憲法は君主権の強いプロイセン憲法を範としてつくられ、君主(天皇)が「臣民」に対して下賜するという形式でつくられた欽定憲法です。

この憲法について面白い議論がありますので、ご興味あればご覧になってください。
「立憲主義」についても解説しています。

帝国議会

さて、この大日本帝国憲法は国家のさまざまな統治機構を規定する基本法としても機能します。「国務大臣」や「裁判所」に加えて、ここで「国会開設の勅諭」で約束した期限が1年後に控えるなか、いよいよ国会、つまり「帝国議会」が規定されることになるのです。

帝国議会は大日本帝国憲法の第33条にこのように規定されています。

第三十三条 帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス

そう、貴族院と衆議院の二院制をとることが規定されています。そこで、衆議院議員を選ぶための衆議院議員選挙法、貴族院議員になれる資格などを記した貴族院令が同日に公布されたということです。

大日本帝国憲法の条文を用いた近現代史勉強法

すこし応用的なので中上級者向けになりますが、大日本帝国憲法の条文(主要なものだけでよい)を見ながらそれに関連する歴史事項を思い出してみると効果的なアウトプットになります。

そもそも憲法とは国家統治の基本法でありますから、条文は「抽象的」。これを「具体的」な事件に落とし込んでみると、その事件と帝国憲法が相乗的に理解できます。

例えば、第8条の緊急勅令の条文を見たら具体的な勅令をどれだけ思い出せるか、とか、第14条の戒厳令の条文を見たら「日比谷焼打ち事件」「関東大震災」「二・二六事件」がすぐに出てくるか、とか。

このようなやり方でアウトプットをしながら学習していくと、近現代史が立体的に見えてくると思います。問題集がなくても、アウトプットはできるのです。近現代史を一通り学習した方はぜひやってみてくださいね。

 

▼大日本帝国憲法主要条文の解説はコチラ

森有礼の刺殺

さて、お話しを戻しましょう。
2月11日の紀元節。憲法公布の当日、ある事件が起こります。

文部大臣、森有礼、刺殺。

その日、憲法発布の記念式典に向かうために官邸を出た森有礼が国粋主義者に刺突されたのです。

森有礼は欧化主義者として知られており、それに対する反発などが背景とされます。
森は翌日に死亡し、それにより黒田清隆内閣の文部大臣は大山巌が臨時兼任するようになりました。

逓信大臣の交代

大臣の交代はもう一人いますね。そう、逓信大臣です。

逓信大臣は榎本武揚が務めておりましたが、1889年3月より後藤象二郎に代わっております。
これはいかなる事情によるものでしょうか。

後藤象二郎
土佐藩出身で大政奉還に尽力したことで知られる。征韓論のあと下野し、板垣らとともに民撰議院設立建白書を提出するなど、自由民権運動、自由党の中心人物の一人。大同団結運動を提唱。

この後藤という人物、土佐藩出身で自由民権運動、しかも自由党の中心人物の一人ということで、内閣総理大臣黒田清隆とは真逆の立場にいることがわかります。

黒田清隆は2月12日に超然演説といって「政府ハ常ニ一定ノ政策ヲ取リ、超然、政党ノ外ニ立チ、…」、つまり政府は議会や政党の意向に関わらず独自に政策を実現するというんですから、民権派が嫌う藩閥政府の考え方そのものなわけです。

そんな黒田内閣になぜ後藤が入閣したのでしょう。

大同団結運動

コタエは、大同団結運動、です。

大同団結運動とは、民権派が結集して帝国議会における多数党形成を目指した運動であります。
後藤象二郎らの呼びかけによって、拡大したものです。

1887年に保安条例が出されて打撃を受けますが、翌年88年には後藤象二郎が東北・北陸遊説に出かけるなどして全国に波及します。

憲法が発布されたのが1889年2月、これにより入獄していた民権派が大赦によって運動に加わり、さらなる高揚を見せていたこの運動でありますが、そんな中での後藤の入閣(89年3月)。

そう、運動の中心人物の黒田内閣入閣によって大同団結運動は混乱し、このあと分裂することとなったのです。

おわりに

内閣の閣僚人事ひとつとっても、そこには「政治的」以上の戦略的な判断が存在するものです。
こうした切り口から歴史を見てみると、また違った理解ができますね。

このあと、条約改正のための外交交渉を行った大隈重信が国粋主義者に襲撃され、結果として黒田清隆内閣が総辞職することとなります。

▼大隈の条約改正交渉についてはコチラ


▼黒田清隆内閣についてはコチラ

今日は黒田清隆内閣についてお話ししました。
次回は内大臣三条実美が登場、そして山県有朋内閣に話を進めてまいります。

広告

※本記事はプロモーションを含む場合があります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事