第一代 伊藤博文内閣【内閣で駆け抜ける日本近現代史】

「内閣で駆け抜ける日本近現代史」はじめに

みなさま、お疲れ様でございます。日本史科の佐京由悠でございます。

今日から始まる新企画、「内閣で駆け抜ける日本近現代史」でございます!!!!
このシリーズでは、激動の日本近現代史を〈内閣〉というモノサシで整理していきます。

内閣とは、大日本帝国憲法上の「国務大臣」の集まりで、平たくいえば政府のことです。

その年代に起こったその事件、政府のメンバーや特徴、出自や支持基盤などがわかれば納得できることも多い。
ここでは、内閣総理大臣本人や代表的な閣僚たち、そしてその時期に起こった主なできごとを整理しながら、ムズカシイといわれる日本近現代史をやさしくひも解いていくことを目的としたシリーズです。

ぜひともお付き合いくださいね!

さて、基本的には一つの記事で一つの内閣を扱うこととしますが、あまりに任期が短いとか、次の内閣とのつながりが深くて分離するのはかえってわかりにくいという事情がある場合は統合して【〇〇内閣~〇〇内閣】という扱い方をすることがありますのでご容赦ください。

私がEducational Loungeで執筆している他のシリーズと併せて、ぜひこちらもかわいがっていただければ幸甚です。
では、早速まいりましょう!!!




内閣制度

さて、今回から話題にする「内閣」ですが、いったいいつからあるのでしょう?

「初代内閣総理大臣は?」と聞くと、「伊藤博文!」という答えが2秒で返ってくるのに、「では伊藤博文が総理大臣になったのはいつ?」と聞くと、「ゴニョゴニョ……」となってしまう方が意外と多い。

これは内閣以前の「政府」の知名度があまりに低いことに由来していると思います。

内閣以前は、そう、太政官制度ですよね。

太政官制とは、1868年の政体書の発布によって設置された最高行政機構です。
やがてその下に各分野を管掌する「省」が設置され(各省の長官は「卿」)ました。

これが1885年、内閣制度の構築によって廃止され、現在につながる内閣制度となったのです(各省の長官は「大臣」)。
*太政官制度においても「内閣」は存在したが、1885年に独立した制度となったというのが正確な書き方ではある。

初代内閣総理大臣・伊藤博文

さ、ようやく伊藤博文の登場です。
1885年12月22日、初代内閣総理大臣として組閣(=内閣を組織すること)したのは長州藩出身の伊藤博文でした。

伊藤博文(1841-1909)
長州藩出身。吉田松陰の松下村塾で学び、さらに高杉晋作や木戸孝允らの影響を受ける。
尊王攘夷運動の志士となり、のちには討幕運動に参加した。明治維新時にはまだ20代。

 

伊藤博文内閣はまず、以下のようなメンバーで内閣を組織しました。

代表的な閣僚たち(組閣時)
  • 総理  伊藤博文(山口、伯爵)
  • 外務  井上馨(山口、伯爵)
  • 内務  山県有朋(山口、伯爵)
  • 大蔵  松方正義(鹿児島、伯爵)
  • 陸軍  大山巌(鹿児島、伯爵、陸軍中将)
  • 海軍  西郷従道(鹿児島、伯爵、陸軍中将)
  • 司法  山田顕義(山口、伯爵、陸軍中将)
  • 文部  森有礼(鹿児島)
  • 農商務 谷干城(高知)
  • 逓信  榎本武揚(幕臣、海軍中将)

 

代表的な閣僚、といいながら内閣書記官長や法制局長官以外すべて記してしまいました(笑)。

それだけ重要人物(となる人物)が多いのと、見てくださいコレ、薩摩(鹿児島)と長州(山口)ばっかりじゃん! ということを実感して欲しかったから。

 

薩長藩閥政治

そう、これがいわゆる薩長藩閥政治というやつです。

薩摩と長州は江戸時代を終わらせる討幕運動の中心的な役割を果たした藩です。
まさに「おれたちがつくった」明治新政府、といわんばかりのメンツです。

こうした藩閥政府はもちろん明治維新当初から形成されていました。

 

自由民権運動

そこで、自由民権運動というのが起こるわけですね。

自由民権運動は1873年に起こった明治六年の政変を背景に、翌年1月に愛国公党が民撰議院設立建白書を提出しスタートする運動ですが、内閣制度が誕生した時点でもまだ続いていました。

▼自由民権運動についてはコチラ

 

主なできごと

(1886.3から順次)学校令を公布(文相・森有礼)
(1886.10)ノルマントン号沈没→領事裁判権に対する世論の批判(外相・井上馨)
(1887.12)保安条例(内相・山県有朋)
(1888.4)市制・町村制公布(内相・山県有朋)
(1888.4.30)枢密院議長に伊藤博文→内閣総辞職

さて、上にこの内閣の時期の主なできごとをまとめてみました。

まずは学校令ですね。
これは正確には帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令の総称です。

1872年の学制から1879年の教育令、同令の改正などを経て教育制度の構築はこの学校令でひとまず落ち着きます。このできごとと結び付けておくと、初代文部大臣が森有礼であることがわかりやすいですよね。

 

ノルマントン号の沈没

86年の10月24日には、和歌山沖で、横浜から神戸に向かっていた貨物船・ノルマントン号が沈没します。このとき、イギリス人船員たちは全員助かったものの、あろうことか日本人客が全員死亡したのです。

当時は領事裁判権といって、外国人の裁判についてはその本国の領事が本国の法律で裁判するということが幕末に結んだ条約によって決まっていましたから、これをイギリス人領事が裁くことになりました。

結果は無罪。
のちに世論の批判をうけて別の領事による裁判で禁錮3ヶ月となりました。

こうした事件を受けて、鹿鳴館外交と呼ばれる極端な欧化主義をとりながら条約改正交渉中であった井上馨が辞任に追い込まれることとなりました。

 

1887年12月 保安条例

87年の12月、保安条例です。

これは自由民権運動に対する弾圧法令のうちの一つで、民権派570名余を皇居外3里に追放するというものでした。

当時、先ほど述べたノルマントン号事件や、かねてからの自由民権運動の激化からいわゆる三大事件建白運動が勃興しておりましたから、それに対する弾圧を企図したといっても過言ではないでしょう。

三大事件建白運動
地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回を求める自由民権派の運動。
星亨や片岡健吉、後藤象二郎を中心に行われた。

1888年4月、伊藤博文は新たに枢密院議長に任命され、憲法草案の本格的な作成に入ります。
そこで、第二代黒田清隆内閣へとうつっていくわけです。

それではまた!

▼伊藤博文内閣についてはコチラ

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