#76 逃避――像に溺れる

電車からいっせいに、同じ制服の集団が降りていく。
その運動は何か、共通する大きな意思に導かれているみたいに見える。
車窓から、階段に向かう制服の群れを目で追う。
その大きな意思は、電車に座ったままのぼくを咎めている。

胃のあたりに背徳感の靄が立ちこめて、ぼくの内側を侵していくが、ぼくはそれを快感のようにも感じていた。
大きな流れ、その力から自ら逸脱したこと、それだけで何かを成し遂げたように思えるのだった。

施設に通っていたことを母に責められたとき、ぼくは何か決定的なものが人質にとられてしまったような感覚を抱いた。
それは見込みのない人質であって、向こうにとっては何一つ価値を見出しえないのだけれども、取るに足らないがゆえに抹消されずに済んでいるような、非対称きわまる人質だった。

ぼくは向こうに合わせて、それが自分にとってもともと何でもないものだったかのように振る舞った。
施設で知った、誰かに必要とされる感覚――そういうものを隅に追いやり、自分の行為を単なる好奇心の発露として振り返り、反省の弁を述べた。

動き出した電車が、見慣れない光景を切り開いていく。
それは何の変哲もない、新興住宅地の風景だった。
けれども駅の先にも世界が広がっていること自体、ぼくにとっては発見なのだった。

家を出た時点では、普通に学校に向かうつもりだった。
けれども駅が近づくにつれ、何か、奪われた人質に対する報いを世界に刻みつけてやろうという、脱臼した義憤心がぼくのうちに居座っていた。

電車が川を渡る。
建物が途端に低くなり、間隔も心なしか疎らになったように思える。
かわりに視界には自然色が増える。
このまま、終点まで行こうと思った。

電車が進むにつれ、1駅ごとの間隔は長くなり、人工物はみるみる疎らになっていった。
そのうち、ぼくを載せた車両のほかは、すべて不気味な有機物になってしまうように思える。
それらはあの、集団の意思とは異なるしかたで、意味を欠いた循環運動のうちにぼくの肉体を飲み込んでしまうだろう。

突然外が暗くなる。
トンネルだ、と気づき、本格的に山の中に入っているのだと思う。
短いトンネルがいくつも続き、その度なにか、時間の流れが切断されるような感覚がある。

終点の駅で降りた途端、混じりけのない空気が気管に入り込んでくる。
遠景にぐるりと連なる山々が、この土地を外部から隔絶しながら、濁りあるものの一切を濾過してしまうのだと思った。

駅前は方々の観光地に向かうための中継地といった様相で、ロータリー周辺には小さい飲食店と土産物屋が点在しているが、この駅自体に何かがあるわけではなさそうだった。
バスやタクシーを待つ宙ぶらりんの時間が、ここに滞留しているように思える。

意図せず見知らぬ土地に放り出された感覚。
ぼくはいま、名もない観光客だった。

しかし、店のガラスに映った自分の姿にぼくは愕然とした。
制服に身を包んだ貧弱な体と、冴えない表情。
どう見たって、終点まで寝過ごしてしまった愚かな高校生でしかなかった。
不自然な合成写真みたいに、街の色彩から制服の色が浮き出てしまっている。

あたりを見回すが、それらしい店は見当たらない。
仕方なくポケットからスマホを取り出し、画面を開いた途端、さっきまでの浮遊感はどこかに離散してしまった。

見つけた店で買った服に着替えてから、一度駅まで戻り、制服とスマホをコインロッカーにしまい込んだ。
ともあれ、家の方角とは逆に進もうと思った。


[連載小説]像に溺れる

第1
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