自転車の一件があってから、母から毎日のように塾に通うことを勧められるようになった。
レールを引き直そうという母の意図は明らかだったけれども、反抗的な感情は不思議と起きてこなかった。
母に従って塾に行くことに対して、肯定的な気持ちも、否定的な気持ちもないのだった。
ただずっと、ヤナガワサンとこれから面と向かって話すことはできそうにないという諦念めいた確信だけがあった。
しかし実際に通いはじめてみると、重々しかった自意識は、目の前の問題に集中することで離散していった。
塾の教室は、それ自体が仮想的な空間だった。
自分が誰であるかを問われることなく、正しい答えを導く機能だけが求められる空間。
ここはある種の実験室だ。
特定環境下での性能が繰り返しチェックされ、ぼくの一切はデータに還元される。
ぼくの方でも、自分を知るうえで数字に準拠するようになっていくだろう。
その確証の閉じたプロセスは、一切のストレスからぼくを免責するように思えるのだった。
3学期が始まってから、ぼくはヤナガワサンの方を見ることができなくなっていた。
というよりも、はじめから見ることを断念していたというのが適切かもしれない。
ぼくが生息すべき環境は、彼女のそばにはないのだ。
偶然生じた接近は、その埋めようもない距離を明らかにしただけだった。
休み明けの実力テストが終わり、通常の授業が始まったその日の昼休み、ぼくは少し逡巡してから部室棟の方に向かった。
ヤナガワサンと顔を合わせるのは気が引けるが、行かなければそれはそれで、彼女との接触を意図的に避けていることを自ら認めることになってしまうように思われた。
結局ぼくは彼女に対して丸腰のまま、階段の端でひとりパンを頬張っていた。
視界の隅に2人の女子が映る。
はっきり視線を向けていなくても、歩き方のクセでそれがヤナガワサンだとわかる。
ほとんど丸一日眺め続けた、重心がかかとに乗った歩き方。
話しかければ、もしかしたらまた、あんな日が来るのかもしれない――意識の隙間を縫うように、淡い期待が立ちこめてくるそばから、あの、交番での凍りついた空気――その記憶が呪符のように、ぼくの体を縛りつけている。
眼球が重たく、一切から目を伏せてしまいたい。
ふさぎ込んでいく心に影を射すように、ヤナガワサンと、おそらくは遠藤の姿が、重々しく接近してくる。
「なぁ」
それははじめ、指向性を欠いた声に聞こえた。
遠藤に向けたものだと思い、ぼくは反応しなかった。
「おい。悪かったな、この前」
今度ははっきりと、ぼくに向けられた声として響いた。
しかし、悪かった、という言葉の意味を理解することができない。
反応に困っていると、ヤナガワサンの手がポケットから抜かれ、そのままぼくの目の前に差し出された。
千円札が二枚。
「利子つかなくて悪いけど」
そういって、二人は奥の部室に入っていった。
そういえば、ぼくはヤナガワサンの食事代を払っていたのだった。
ぼくとしては奢ったつもりだったのに、手元に返却されてしまったそのお金は、何かの手切れ金のように映る。
これであの日のことは、全部精算される。
ヤナガワサンもそれを望んでいるということなのだろう。
胸が痛んだ。
心臓がかぼそく、打ちのめされた犬みたいな声をあげている。
掴もうとしていた何か、自分を変容させる可能性そのものが、ざあっと笊から落ちていった感じがした。
背後で再び、ドアの開く音がする。
漂ってくる煙のにおい、そのなかに潜り込んだ、バニラと柑橘系の香水が、ヤナガワサンの接近とともに弾け出し、彼女の色を鼻腔に染みつけた。
ぼくを通り過ぎ、彼女は一瞬立ち止まる。
「なぁ、放課後ヒマ?」
振り返ったヤナガワサンの表情には、一切の屈託がなく――ぼくは塾のことも忘れてただ頷いていたのだった。
[連載小説]像に溺れる
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