#56 偽善――像に溺れる

雨に散った桜の花びらが、ぐちゃりぐちゃりと靴の裏にこびりつく。
まっすぐな通りに整然と並ぶ桜の木々は、道沿いにある大学の入学式を朗らかに祝っておきながら、雨に見まわれたぼくの高校の始業式には、薄汚いカーペットとなって駅までの道を埋めている。
泥にまみれた花びらは、つい先日までの自身の盛りを、なんとも無念に噛みしめているように見えた。

教室の黒板に貼り出された席次表に、ヤナガワサンの名前は載っていなかった。
それどころか、学校中の名簿から彼女の名前が消えてしまったことを、ぼくはすでに知っている。
ぼくの目はそれでも、何かの救いを求めるように、席次表の一番端に「柳川」の文字を探していた。

2年生に上がっても、特進クラスの面子にはほとんど変化がなかった。
水槽の入れ物だけ移し替えたみたいに、教室の場所が変わったほかは、春休み前と同じ人間模様が広がっている。
後ろを振り返れば、教室の端で頬杖をつき、外を眺めるヤナガワサンがいるように思える。

制服のポケットには、まだヤナガワサンのライターが入ったままだ。
返すチャンスはいくらでもあったはずなのに、伝えそびれたさまざまな言葉と一緒に、ぼくの手元に残されてしまっている。
これから先ずっと、ぼくがこのライターを手放すことは許されないのだろうと思う。

関係が一変したのは、2学期の期末テストからだった。
テストを翌週に控えた金曜の昼休み、ぼくはクラスに配布する自作の予想問題を刷るべく、コピー機を借りに職員室へと向かっていた。
ちょうど廊下で、鞄を持ったヤナガワサンとすれ違う。
明らかに、午後の授業を受けずに帰る気だ。

それはぼくにとって望ましくない状況だった。
他の誰を差し置いても、ぼくは彼女にそのプリントを渡したかった。
彼女に対する負い目の埋め合わせとして、ぼくはこの問題を作ったのだ。
ヤナガワサンのことだから、明日も学校に来るとは限らない。

すぐさま担任の許可を得て、印刷に取りかかる。
スピードを最大に設定すると、コピー機はそのまま暴走してしまいそうな轟音を立て、恐ろしい速度で紙を排出していく。
尋常ではない機械の様子に、おのずと焦りも過熱していく。

刷り終わったプリントを抱えて、職員室を飛び出し、そのまま走って校舎を出る。
はじめて破った外出禁止のルールは、別に実体となって校門を塞いでいるわけではなかったし、ましてや外までぼくを追いかけてくるわけでもなかった。

5分ほど走り、駅の階段でヤナガワサンの姿を捉える。
一気に駆け上がり、ぜぇぜぇ切れる呼吸に乗せて、「ねぇ」と彼女に呼びかけた。
歩みは止まらない。ぼくの声など、認識されていないのだ。

「やながわさん!」
ボリュームがうまく調節できず、周囲に響き渡る声で呼びかけてしまった。
怪訝な表情で振り返る人たちのなか、ヤナガワサンも足を止める。
この上なく面倒そうな顔。
鋭い目つきに刺されながら、どうにか用件を絞り出す。

「えっと、これ……期末の予想問題、よかったら」
1人分のセットを作ろうとするが、うまく1枚ずつ抜き取れない。
ヤナガワサンは黙ったまま、手間取るぼくを見下ろしている。
そのままぼくを見切り、行ってしまうのではないかと焦ったが、プリントが揃うまでじっと待っている。

「なんでわざわざ」
差し出したプリントを受け取るかわりに、ヤナガワサンは眉間にしわを寄せながら言った。
問い詰めるような調子にも聞こえる。
無愛想なのはいつものことだが、こちらの意図を尋ねられるのははじめてだ。

「わからないけど、悪い点取ってほしくない」
ヤナガワサンはプリントに目を落とし、またぼくの方に視線を戻す。
いっそう怪訝な表情。

「何?ギゼンシャ?」
体が硬直する。
内側では心臓が大げさに弾み、喉から飛び出すのではないかと思われた。
偽善……自分の疚しさを消すために、他人に優しく振る舞うことが偽善なら、まさしくぼくのやっていることは偽善にほかならない。

「ハンパに絡んでくんじゃねぇよ」
答えられないぼくに失望したみたいに、プリントを受け取らないまま、踵を返す。
喉が焼けそうだ。
何か決定的な、表に出してしまえば自分がまるごと変質してしまう、そういう言葉がじわじわ胸の堰を切ろうとしている。

「半端なんかじゃ、ない。この問題だって……やながわさんに使ってもらえるように作った」
再び、くるっとこちらに向き直る。
光の加減か、表情の曇りが晴れたように見えた。
そのままぼくに近寄り、プリントを覗き込んでくる。

「全然わかんねぇんだけど」
ぼくを見上げるその表情には、一切の屈託がない。
急に軽やかになった彼女の心の内など、ぼくには推し量れるはずもない。

「一応、解答もあるんだけど……」
頼りない口元が発した言葉にかぶせるように、「いや、つーかお前が教えろよ」と、当然のごとく彼女は言った。


[連載小説]像に溺れる

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  • #56  偽善

 

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