桃山文化――佐京由悠の日本文化史重要ポイント

お疲れ様でございます。日本史科の佐京です。
今回取り上げる文化は桃山文化です。
桃山文化は近世初期の文化で、織豊政権―つまり織田信長・豊臣秀吉の時代が中心の文化です。

ちなみに「桃山」とは、秀吉が晩年に過ごした伏見城の跡地に桃が植えられたことから来ているのです。
さてまずは、基本情報から眺めてみましょう!

桃山文化の基本情報

☆キホン情報の整理
時期:16世紀後半
政治史的理解:織豊政権期
中心人物:織田信長・豊臣秀吉
外交史的理解:キリシタン文化の導入と南蛮文化の影響
仏教史的理解:織田・豊臣による仏教弾圧

 

桃山文化における仏教

琵琶湖から見る比叡山

この時期は信長・秀吉による仏教弾圧が繰り返されます。
ざっと挙げてみましょう。

Point 信長・秀吉による仏教弾圧
信長
(1571)延暦寺焼打ち
(1570~80)石山戦争
(1574)伊勢長島一向一揆
(1575)越前一向一揆
(1580)加賀の一向一揆
秀吉
(1585)雑賀の一向一揆/根来の一揆→鎮圧 「紀州攻め」

 

特に信長が容赦ないですね……。
実はコレ、「仏教」でひとくくりにしていますが、「延暦寺」と「一向一揆」にわけて考える必要があります。

信長が延暦寺焼打ちを行ったのは、延暦寺が、信長と敵対する浅井・朝倉氏の味方をしていたから。
これにより、古代以来の宗教的権威である延暦寺に大きな打撃を与えたことになります。

Point 延暦寺の「宗教的権威」
比叡山延暦寺は、天台宗の総本山で、最澄がつくった草庵が発祥。
仏教教学の中心とされ、興福寺と並んで南都北嶺と称された。
鎌倉新仏教の開祖たち(法然・栄西・親鸞・道元・日蓮)が学んだことでも知られている。

▼延暦寺焼打ちについてはコチラ

一向宗門徒による「一向一揆」

次に一向一揆です。
一向一揆とは、一向宗門徒によって形成される一揆のこと。

その一向宗とは、「一心一向に阿弥陀仏に帰依する」から来ており、浄土真宗(本願寺派)の別名です。
一向一揆は、蓮如による惣村の結合を利用した組織的な布教により、北陸や東海地方に勢力を広げていました。

そもそも一揆とは、「特定の目的達成のために結成された集団」という意味、惣村は「自立した農民たちによって荘園や公領内に形成された自治的な結合」です。

その意味で一向一揆それ自体、強い結合をもった、自治的な組織であるわけです。
寺内町を形成したこともうなずけますね。

Point 寺内町
一向宗寺院や道場を中心として形成された町のこと。濠や土塁などをめぐらせて防御機能を持たせたものもあり、一向一揆の拠点となった。
吉崎(吉崎道場)、山科(山科本願寺)、石山(石山本願寺)などが代表。

 

信長は天下統一にむけて、こうした一向一揆勢力を制圧していきます。

1580年、顕如が屈服して紀伊国雑賀に逃れて「終結」した石山戦争ですが、のちに秀吉はさらに根来・雑賀一揆に対する紀州攻めでこれをおいつめ、平定します。

信長による延暦寺焼打ちも、信長・秀吉による一向一揆の弾圧も、天下統一を行おうとする両者にとってはどうしてもやっておかなければならなかったことなのですね。

▼一向一揆の布教(加賀の一向一揆)についてはコチラ

桃山文化の美術

さて、美術です。
ここでは城郭建築と、絵画を主に取り上げてみましょう。

城郭建築

まずは、城郭建築です。

この時期、天守閣を持つ本丸、石垣などを擁した近世の平城がメインとなります。

そもそも城は中世においては、戦争を前提とし防御機能をもった山城が中心でした。
それが、戦国大名の分国一円統治が進む過程で、城下町の中心としての役割(つまり大名の居館・政治の中心)を担うようにもなり、平城にシフトしていったわけです。

主な城郭建築は、以下の通りです。

  1. 安土城:五層七重の天守閣をもつ織田信長の居城で琵琶湖畔にあったとされる。
  2. 大坂城:豊臣秀吉が築いた本拠で、石山本願寺の跡地。
  3. 伏見城:京都伏見に築かれた秀吉晩年の居城。このあと地に桃が植えられ、「桃山」に(先述)。
  4. 聚楽第:秀吉が京都、大内裏跡に築いた城郭風の邸宅。

ちなみにこれ以外でも、聚楽第の遺構とされる(確証なし)西本願寺飛雲閣や、伏見城の遺構とされる都久夫須麻神社の本殿・唐門なども押さえておきましょう。

 

絵画

つづいて、絵画です。
絵画では濃絵(だみえ)が登場します。

濃絵とは余白部分が金銀地で、緑青や朱などの濃彩で描いたもの。
一般に障壁画(ふすまや壁、屏風に描かれた絵)は金碧障壁画水墨画からなりますが、前者が濃絵です。

ちなみに障壁画って描くときに「絵具垂れないのかなぁ?」って思ったことありませんか?(笑)
私が受験生の時は、思っていました(笑)。
床に垂れちゃったら掃除大変だろうなぁって……。

障壁画はまず布や紙に絵を描き、それを壁やふすまに貼るのです。
ですから、貼付絵ともいわれることもあるんです(これに対して壁に直接描くのは「壁画」です)。
だから垂れません!
なるほど。

さて、障壁画のもう一つのタイプが水墨画です。
水墨画についてはすでに北山文化・東山文化の記事で触れておりますので、ぜひそちらもご覧ください。

▼水墨画についての記事はコチラ

ここでは、濃絵(金碧障壁画)と水墨画を作者ごとに整理しておきましょう。

濃絵

  1. 狩野永徳『唐獅子図屏風』
  2. 狩野山楽『牡丹図』
  3. 長谷川等伯『智積院襖絵(楓図)』  *子の久蔵は『桜図』
  4. 海北友松『牡丹図・梅花図屏風』

水墨画

  1. 長谷川等伯『松林図屏風』
  2. 海北友松『山水図屏風』

長谷川等伯や海北友松については濃絵と水墨画、それぞれの代表作がありますので、必ず写真資料で確認しておきましょうね。

 

それでは今日はこの辺で!
次回からはいよいよ江戸時代です。

▼桃山文化について詳しくはコチラ

〔画像:京都フリー写真素材


「佐京由悠の日本文化史重要ポイント」
第1回 初の仏教文化、飛鳥文化
第2回 国家仏教の形成と白鳳文化
第3回 鎮護国家思想と天平文化
第4回 弘仁・貞観文化
第5回 国風文化(前編)
第6回 国風文化(後編)
第7回 院政期の文化
第8回 鎌倉文化(前編)
第9回 鎌倉文化(後編)
第10回 室町文化(前編)
第11回 室町文化(後編)
第12回 桃山文化

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