国風文化(後編)――佐京由悠の日本文化史重要ポイント

受験生の皆さま、お疲れ様でございます。
日本史科の佐京でございます。

今日は「日本文化史重要ポイント」の第6回、国風文化の後編をお送りしたいと思います。

*国風文化の前編はコチラから

 

仏教史的理解

さて、前編で述べた通り、いわゆる国風文化の時代の仏教史的なキーワードは「浄土教」となります。
「浄土」ではなく「浄土」です。

Point 浄土教
西方極楽浄土の主である阿弥陀如来を信仰することで、来世には極楽浄土に往生して悟りを得て、苦がなくなることを願う教え。10世紀半ばに空也、ついで源信がこれを説き、貴族から庶民に広まった。

「浄土宗」は鎌倉仏教の記事で登場するので待っていてくださいね。
*待ちきれない方はコチラ

「浄土教」は独立した「宗派」ではなく、あくまで上記のような「教え」です。

 

浄土教流行の背景

さて、浄土教自体はもともとありますが(7世紀後半から阿弥陀や西方極楽浄土への信仰はある)、平安貴族の死への不安をケアする意味での浄土教が盛んになるのはこの頃です。

では、その背景にはどんな事情があるのでしょうか。

Point 浄土教流行の背景
(この時期の)浄土教の成立として、密教の世俗化や地方政治の混乱、武士の勃興などがあげられますが、浄土教の信仰が「いっそう強められた」(山川出版社『詳説日本史B』)のが末法思想です。

 

末法思想とはどのようなものか

末法思想:釈迦の死後(入滅後)、仏法(仏の教え)が徐々に衰えていくとする終末思想のこと
一般に釈迦の死後1000年を「正法」、次の1000年を「像法」、その後1万年(!)を「末法」とする。

日本では1052年にこの末法の世が始まるとされておりました。

1051年前九年の役→1052年末法突入→1053年平等院鳳凰堂落成

というように整理しておくと、理解しやすいですね。

*末法思想についてはコチラ

 

平等院鳳凰堂

Point 平等院鳳凰堂
もとは藤原頼通の別荘でこれを寺院としたのが平等院、その阿弥陀堂を平等院鳳凰堂という。
1053年に落成。中央には本尊である平等院阿弥陀如来像があり、仏師定朝の作である。
定朝は従来の一木造に代わり、仏像の身体をいくつかの部分に分けて分担して作る寄木造を完成したことでも知られる。

 

平等院鳳凰堂と寄木造

*寄木造についてはコチラ

シレっと大事なことを書きました。
この時期、仏像の技術面でも変化が起こったのです。

寄木造は上記の通り、仏像の身体を別材で作るものです。

従来の一木造とは何が違うのでしょうか。

そう、製作を複数人で分担できる。
ということは、大量生産が可能になったということですね。

なるほど!これで、

〈末法思想→浄土教の広まり→阿弥陀信仰により阿弥陀如来像の需要増→大量生産の必要性→寄木造〉

という整理ができますね。
寄木造が確立されると、材を組み合わせてつくるわけですから当然、材の大きさを越える仏像もできます。

平等院鳳凰堂の扉絵

それと、平等院鳳凰堂には扉絵といって壁や扉に来迎図が書かれています。

Point 来迎図
阿弥陀如来が臨終の信者を迎えに来る様子を描いた絵画。高野山聖衆来迎図も有名。

 

「平等院鳳凰堂」に紙面をかなり割いてしまいましたが、それほどこの建築は国風文化で「も」重要ということです。

ぜひ「平等院鳳凰堂」のさまざまな要素から国風文化の総論的な知識を「芋づる式」に導き出す練習をしてみてください。

また、さきほど「国風文化でも」と書きました。
「平等院」は他の時代、他の分野でも登場します。
日本史を一通り学んだ皆さんは、「平等院」と脳内検索をしたら、アタマの中には何がヒットしますか?

ワンポイントアドバイス~脳内検索勉強法のススメ~

よく、「記憶のコツは?」と聞かれます。

それはズバリ、「思い出すこと」。
人間の脳みそって意外と単純なので、触れる回数が多ければ多いほど「これは生きていくのに必要な知識だ!」と勘違いします。

ですから、復習のキホンは、本書を何度も何度も(セルフレクチャーしながら)繰り返すことです。で、ある程度慣れてきたらやって欲しいのが「脳内検索」勉強法

ある歴史用語を目撃したときに、「ほかにどこで出てきたっけな?」と脳内検索をかけてみる。
たとえば「平等院」が出てきたら・・・?

①(1053)藤原頼通→②(1180)以仁王&源頼政→③(1485)山城国一揆、

などと出てくるわけです。

このようにして脳内検索を通して復習することで、時代を自由に行き来できるチカラが育ち、テーマ史などの応用問題にも対応できるようになるのです。お試しあれ!

 

「国風文化」における文学


さて、文学にも触れておきましょう。
前編でもお伝えした通り、「国風」文化とは、10世紀までの中国文化の吸収・定着を土台としながらも、これを咀嚼し、アレンジしていった文化といえるわけです。
これを文学についてみてみるとどうでしょうか。

仮名文字と和歌

まずは文字、「仮名文字」でしょう。

Point 仮名文字
仮名は「真名=漢字」に対する言葉で、漢字から生まれた軽便な表音文字のこと。
平仮名は万葉仮名の草書体を簡略化したもの、片仮名は漢字の偏や冠などの一部を用いて、もとは仏典訓読などに用いられたもの。

そして、「人びとの感情や感覚を生き生きと伝えることが可能」(山川出版社『詳説日本史B』)となり、まず和歌が発達します。
和歌集においては醍醐天皇の命で成立した『古今和歌集』をまず押さえましょう。

物語文学・日記文学

そして、物語文学も盛んになります。
ここは古文でもたくさんお聞きする話と思いますが、伝奇物語の『竹取物語』、歌物語『伊勢物語』、日記文学では『土佐日記』『蜻蛉日記』『更級日記』を押さえましょう。

『土佐日記』の紀貫之は『古今和歌集』の仮名序でも名前が出てきますし、『蜻蛉日記』『更級日記』は著者を逆に覚える受験生がたくさんいます。
注意しましょう。

 

藤原道長『御堂関白記』

日記でいえば、藤原道長『御堂関白記』も重要です。

道長は関白に準ずる内覧左大臣一上いちのかみ摂政太政大臣などを歴任していますが、『御堂関白記』なのに藤原道長は関白にはなっていません

ちなみに『御堂関白記』の「御堂」とは何のことでしょうか。

これは法成寺の阿弥陀堂(もとは無量寿院)のこと。
藤原道長が建立した阿弥陀堂でございます。

さらに藤原道長は1007年、法華経などを入れた「経筒」を奈良県の金峰山に埋納し、経塚をつくったことでも知られています。

経筒は末法思想の到来により、経典の滅亡を恐れて法華経などを地中に埋めたもの。

なるほど、最後はやっぱり浄土教末法思想にかえってくるのですね。
それでは、今日はこの辺で。

国風文化の解説動画

*国風文化の各論について詳しくはコチラ

〔画像:京都フリー写真素材


「佐京由悠の日本文化史重要ポイント」
第1回 初の仏教文化、飛鳥文化
第2回 国家仏教の形成と白鳳文化
第3回 鎮護国家思想と天平文化
第4回 弘仁・貞観文化
第5回 国風文化(前編)
第6回 国風文化(後編)

広告

※本記事はプロモーションを含む場合があります。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事