#58 不自由な像――像に溺れる

テストが返却されてから、母の機嫌がはっきりと悪くなった。
家の中の酸素が薄くなり、胃に鉛が混入したみたいに体が重い。
通知表の成績は変わらなかったが、平均点が5点近く落ちていた。

ヤナガワサンの勉強に付き合ったことに対して、後悔しているわけではなかった。
むしろ、あのファミレスでの時間が本当だと思った。
部屋にこもり、高得点のために自身の思考をカスタマイズしていたかつての自分が、いかにも視野の狭窄な人間であったように感じられる。

当然、そんな内心の変化は母に伝わらない。
ただ、点数の下落だけが結果として示されている。
成績の落ちた息子――その不自由な像に、ぼくは閉じ込められる。

冬休みが始まった次の日、午前2時頃に着信があった。
朦朧としたまま画面を見ると、「公衆電話」の文字が浮かんでいる。

出るやいなや「いまヒマ?」と尋ねてきた声の主が、ヤナガワサンだと理解できるまで数秒かかる。
現実味を欠いたまま、「寝てるとこだけど」と返す。

「いま家ねぇんだわ、金なくて寒い」
まったく事情が掴めない。
居場所を聞くと、ぼくの家からは5駅ほど離れたところにいるらしい。
聞いてしまったからには放っておくわけにもいかない。
近くの店に入っておくよう伝え、今から行くと約束する。

物音をたてないよう、スロー再生みたいにジャージに着替え、ダウンを羽織って家を出た。
凍てつく空気のなかマンションを出ると、見知らぬ夜が広がっている。
自転車のハンドルを持つ手がすでに冷たい。
空は開けているのに、地上は無音と静止に占められて、吐く息だけが妙に有機的だった。
地図をセットしたスマホをカゴに放り込み、ペダルを漕ぎ出す。

道路のあらゆる物陰に、何か邪悪なものが息を潜めている気がする。
人のいない世界で、ルールは拘束力をもつのだろうか。
少なくとも、法律には意味がなくなる。
物理法則は?
人がいなくてもリンゴは落ちる。
本当にそうだろうか?
暗闇のなかでは、リンゴがこっそり宙に浮くこともあるのではないか?

嫌な想像をかき消すようにペダルを漕ぐ。
手の感覚がなくなっているが、一切のセンサーは得体の知れない恐怖心に飲み込まれてしまっていた。
ヤナガワサンは、こんな夜を平然と受け入れているのだろうか。
そもそも、家がないとは一体どういうことだろう。

約束のファミレスに着き、人の世に戻ってきた感覚に安堵する。
入ると、奥の方の席で机に突っ伏すヤナガワサンの姿が見えた。
小皿のポテトがテーブルに放り出され、よるべない表情を浮かべている。

近づきながら、なぜぼくがここにいるのか、今さら疑問が膨らんできた。
ヤナガワサンは、なぜぼくに連絡したのだろう?

気配を察知したようにヤナガワサンが顔を上げ、「おう」とだけ口に出した。
何から聞けばいいのかわからず、無言のまま席につく。
ともかく手を温めたくて、ドリンクバーを頼むと、ヤナガワサンが「頼んでいい?」と聞いてくる。
気を遣ってポテトだけにしていたらしい。
店員が去ると、席を立ち「何にする?」と聞いてくる。
自分で行くと答えるが、「いやわりぃし」と言って聞かない。
仕方なくココアをお願いする。
ヤナガワサンに義理のような感覚が備わっていることを、少し意外に思った。

ぼくらはそのまま、しばらく無言で向き合っていた。
なんとなく、ぼくでなくてもよかったのだろうと思う。
パチンコみたいに小さな運命がぶつかりあって、たぶん今は、その余波のようなものの中にいるのだ。
パチンコで失ったクラストップの座。母の信頼。
その考えは不思議と、自分の身を軽くするように思えた。
確率と乱数の閃きのなかにこそ、自分自身のいまがある――そういう風に生きてみたいと思った。

「いい大学行って、大企業に入って、何か変わるのかな」
漠然とした思考が、意図のわからない質問になって浮かんでくる。
「いんじゃね、わざわざ不満探さなくても」
いくつか質問を先取りしたような答えが返ってくる。
「ぼくは恵まれてるってこと?」
「しらん、お前のことよくしらんし」
「じゃあなんでここに呼んだの?」
ヤナガワサンは一瞬、視線を宙に泳がせてから、「悪い」と一言つぶやいた。
話を変えてしまったばかりに、肝心なことが何も聞き出せていない。
そのまま、あいまいに夜がふけていく。


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4

 

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