#57 時間と自由――像に溺れる

ファミレスの四人がけテーブルに、プリントやら教科書やらが散乱している。
ぼくの目の前には、ヤナガワサンと遠藤がいる。
どうしてこうなったのかわからないまま、ぼくは現代文の範囲である「時間と自由」をめぐる評論文について説明している。

時計に表象される、外部化された時間。
まさにこの瞬間、自分が体験している「いま」によって成り立つ時間。
その二項対立が軸になった文章だ。
外部化された時間に、支配されてはいけない。
自分だけの「いまこの時」を生きなければいけない。

目の前に二人が座り、ぼくの話を聞いている。
この勉強会が始まってからずっと、状況を把握できない浮遊感が続いている。

12時18分、ヤナガワサンに追いつき声をかける。
12時21分、ヤナガワサンに勉強を教えるよう言われ、待ち合わせの約束をする。
14時10分、待ち合わせ場所にヤナガワサンが遠藤と一緒に現れる。10分遅刻。

何時何分に何があったなんて、そんな事実をいくつ積み重ねても、いま、ぼくの声がヤナガワサン達に聞かれている緊張と高揚は導かれない。
このフワフワした感覚は、どこにも記録されることのないまま、熱を発するしこりのような記憶として残るのかもしれない。

自由というのは、記録されないことだろうか。
時計の刻む時間に組み込まれないこと、誰かの像に押し込められないこと……
互いが何者なのかもよくわからないまま、曖昧な形状の思念を伝えようとしている今このとき、ぼくはまさしく自由のなかに放り込まれていた。

「でもみんな時計無視したらヤバくね?」
ヤナガワサンが思いついたように口を開く。
当たり前のことを言っているのに、表情はいたって真剣だ。
「こっちが本物の時間です、これでみんなハッピーになれますよ、とか言い出すヤツ出てきたらヤバくね?」
言っていることはなんとなく理解できるが、なぜそんなことを気にするのかわからなかった。
「怪しいセミナーみたい」
遠藤が相づちを打つ。
この文章で言いたいのはそういうことじゃない、と反論したいが、どう言えばうまく伝わるのかわからない。

「でも、時計の時間と、いま自分が体験している出来事の流れが違うっていうのはその通りじゃない?」
早口に当たり障りのないことを言ってしまい、つまんないヤツ、みたいな視線を感じる。
「んなこたわかるわ。体験の方が絶対、時計はニセモンとか言い出すとヤバいんだよ」
一息に、強い口調でヤナガワサンは言った。
感情を乗せて話す彼女を初めて見る。
左のまぶたが細かく痙攣していた。
なんだか不安定な表情に、少し心配になる。

「この文章は、そんな単純な構図で話していないと思うけど……」
「わかってるよ。頭いてぇ。吸ってくる」
そう言って、ヤナガワサンは乱暴に席を立った。

10分ほどして戻ってきたヤナガワサンは、追加でハンバーグを注文した。
もう夕飯の時間か、と焦って時計を確認すると、まだ17時にもなっていない。
「自由だろ?」
そう言って、ヤナガワサンは不敵に笑った。
その通りだと思った。

その後も、ヤナガワサンの妙な揚げ足取りを挟みつつ、迷子のような時間が流れていった。
二人がぼくの言っていることを理解しているのか、この時間は二人のためになっているのか、まったく定かではないまま、時計の針は進み、けれどもぼく自身は不思議と満たされているように思える。
たぶんこれは、本来生じえなかった時間だ。
たまたま、運命たちのぶつかりどころが悪くて今がある。
偶然の産物に過ぎない今この瞬間、酸素がヘリウムにすり替えられたような珍妙な空気のなかで、ヤナガワサンは自然に呼吸している。
きっと彼女はこれまでも、得体の知れない気体に囲まれながら生きてきたのかもしれない。

外はすっかり暗く、窓ガラスは露で濡れている。
いつのまにか20時になりそうだ。
母もそろそろ帰ってくるだろう。
急に終わりが意識され、外部化された時間の不自由さを実感する。

「二人とも、帰らなくて平気なの?」
「帰るのダルいし」
「私も」
遠回しに解散をほのめかしたつもりが、あっさり切り捨てられてしまった。
自分から帰るとも言い出せず、結局終電の時間までぼくらはファミレスにいた。

スマートフォンの電源を入れると、50件ほどの着信履歴と、30件ほどのメッセージが残されている。
二人の目を気にせず、連絡を入れておけばよかった。

家に着くと、真っ暗な部屋のなか、確かに母が起きている気配があった。

「何時だと思ってるの」
暗闇から母の声が浮かび上がる。
「ごめん」
「試験前でしょう」
「友達と勉強してた」
「成績落ちていたら、承知しないからね」
「大丈夫」

冷静を繕って出た言葉だ。
普段と集中の度合いが異なることは明らかだった。

結局、試験期間中ぼくらは毎日効率の悪い勉強会を開き、ぼくはここではじめて、クラス首位の座を奪われたのだった。


[連載小説]像に溺れる

第1
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第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
第4
  • #56  偽善
  • #57 時間と自由

 

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