
その日は朝から、ヨネザワの機嫌が悪かった。
 新聞を掴む手はいつもの三割増しで力が入っているように見え、コメカミには邪悪な寄生虫めいた血管が浮かび、今にも破壊衝動に乗っ取られそうな形相をしている。
 眉毛はへの字どころか悶える毛虫みたいにキモいので、当然こっちも上機嫌になどなるはずもなく、ヨネザワが不器用にコーヒーカップを置く音がいちいちカンに障る。
マツシマはなんら気を取られることなく、いつものテンポで朝食を用意しているのだが、リズムは同じで音色が違う、そんな様子のリビングに、かえって不気味さを感じる。
 ひとしきり額やら首筋やらを掻いたあと、ヨネザワは突然黙り込み、スマホの画面に見入った。
 みるみる寄生虫が動きを止めていき、茶色いレンズ越しの目も澄んでいくように見える。
 一体何を凝視しているのだろう。
 キモいので想像したくない。

起きてきたカイドリのポーカーフェイスが時間の流れを元に戻して、私は出かける準備に取りかかる。
 顔を洗ううちに気分も整い、マツシマの「いってらっしゃい」のトーンが心なしか陽気に響いた。
1時間ほど走って着いたのは、車の解体場のようなところだった。
 敷地にはタイヤを外されカメのようになった車が並び、その周囲には取り外された部品がざっくりと区分けされて置かれている。
 イメージしていたよりもだいぶ、新しそうな車が多いように思った。
奥のプレハブから出てきた中東系と思しき男性と、ヨネザワが知らない言語で喋りはじめる。
 知っている人間が知らない言語を話すのは不気味だ。
 何やら表情の変化もいつもと違う気がする。
 話すときの筋肉が違うからだろうか。
「おら、乗り替えるぞ」
 突然こちらに向き直ったヨネザワが発した言葉は、不細工な岩のようにザラついていて、それが日本語だと理解するまでに少し間が生じる。
 ヨネザワの指す先には、何の変哲もないミニバンがあった。
 乗ってみると、うっすら新車のにおいがした。
 なぜそれが解体屋にあるのかはわからなかったが、ともかくマトモな理由でないことはわかる。
何にせよ後ろの席の豊かなクッションは、私をケツの心配から解放した。
 しかし、新しい車に乗り換える日になぜ、ヨネザワはあんなに不機嫌だったのだろう。
 それはひどく嫌な予感を抱かせた。

新しいクッションの感動にも飽きた頃、車は巨大なショッピングモールに入っていった。
 建物の入り口付近に車を停めると、ヨネザワは私たちそれぞれにメモと金を渡し、そのまま車でどこかに行ってしまった。
 カイドリはメモを見ながらスタスタ先に進んでいる。
 自分のメモに目を落とすと、オムツやらお尻ふきやら、どう見てもベビー用品としか思えない言葉が列挙されている。
 マツシマだろうか?
 思考が現実逃避に走っている。
 そもそも、オムツはLサイズの指定だった。
 いま私がもっとも直視したくない想像が、おそらくもっとも事態を正確に捉えているように思えて、実際それはその通りだった。
モールの駐車場に戻ってきたヨネザワの車には、チャイルドシートが設置されていた。
 もはや目を背けようがなかった。
 どこかから子どもを連れてくるのだ。
「誘拐じゃないだろーな」
 私の言葉に、ヨネザワは「ちげーよ」と答え、少し間を置いて「世間やサツがどう思うか知らねぇけどな」と付け足した。
 「これも誰かを解放するため?」と聞くと、ぶっきらぼうに「そうだよ」とだけ返ってきた。
けれど、ヨネザワが次に車を停めたのは、ごくごく平和そうな保育園の駐車場だった。
 「中で待ってろ」と言い残し、施設の正面玄関に入ってから5分も経たないうちに、ヨネザワは腕に1歳くらいの男児を抱きかかえて出てきてしまった。
 そのまま、無造作にチャイルドシートに放り込み、無言のまま発進してしまう。
 子を連れ去ってきたヨネザワ自身もふくめて、車内の誰も、今自分たちが何をしでかしているのか、あるいは何に巻き込まれているのか、まったく飲み込めていないような空気だった。
 ようやく異変を察知し泣き出したその子が、まだしも一番はっきりした意識をもっていたのかもしれない。
[連載小説]像に溺れる
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