#79 飛翼――像に溺れる

「てかなんで家出? 高校生?」
「高二です。なんで家出したのか……自分でもよくわかりません」
女性は大げさに噴き出し、ハンドルを叩きながらゲラゲラ笑った。
笑い方が少しヤナガワサンに似ている気がした。

「なんだそりゃ。まぁ高二っつったら、だいたい親か、女だろ」
そう言って、少し意地悪そうな笑みを浮かべる。

「私もよくやったなぁ。ぜんぶ納得いかない、みたいな。今じゃ私が反抗される側だ」
誰にでもある、一過性の反抗心。
ぼくを突き動かしているのは、そのようなものでしかないのだろうか。

「ベルトコンベアに載せられているみたいなんです」
「え、どうした」
自分の突飛な表現を恥じるが、それ以外に言い表しようがなかった。
「決まったように進学して、就職して。替えのきく仕事をやって、スマホとか洗濯機とか、みんなと同じようにモノを買って、みんなと同じ、レビューのいい店とか観光スポットに行って……」
「あぁ、そういう。てかそれ、そんなダメ? 人と同じかどうか、気にする必要なくない? どうしたって人の中身は違うんだし」
「なんというか、自分がどんどん、なりたくないものの型にはまっていく感じがするんです」

久々の信号で車が止まる。
ラップの攻撃的な歌詞が、無用に牙を剥き出しにしてしまった肉食動物みたいに、所在なく車内を徘徊している。
信号待ちの癖なのか、女性はハンドルを指でトントンと叩いている。

「なんだろ、贅沢だな。高校生なんてみんな贅沢だけどさ。君は選べる立場というか、特別になろうって思える環境にいるんだと思う。私は勉強できなかったし、家にもお金なかったからさ。大学に行くとか考えたこともないし、普通が嫌だ、なんて思ったこともないんだ」

その言葉に、ぼくは返す言葉をもっていない。
信号が変わり、急発進ぎみに車が走り出す。
首が少し後ろに持っていかれる。
このまま、思念体になってしまえばいいと思う。

「私は学校から紹介された会社にしがみつくしかなかったから。紹介枠1つだけだよ? それでも、定職につけただけ幸せだと思ってる。子どもにはもう少し、選べるようにしてあげたいけど、きっと君みたいにはなれないんだろうなって、いまなんとなく思った」

鼻筋のあたりが冷たく、何か細かなものがそこを這っている気がする。
指で押さえてみるけれども、なにかが、どこかが馴染んでいない。

「君はきっと、あたりまえに勉強ができるでしょ? 君のまわりには、勉強するのが普通って人がたくさんいるでしょ? 私は子どもに教えられないし、どこに行けば正しい方法で教えてもらえるのか、判断する基準も持ってない」

自分が生まれつき被っている殻を、ぼくは脱ぎ捨てたいのだと思った。
それは皮膚に深く食い込み、骨にまで癒着しているので、もぎ取ろうとすれば身体機能を著しく損なってしまう、そういう厄介な代物だった。
ぼくはそのダメージを恐れていて、ヤナガワサンとの違いはきっと、そこにあるのだと思う。

「嫌なんです。自分自身の力じゃないのに、有利な立場に置かれているのが」
車が急なカーブにさしかかり、身体が大きく左に傾く。
ハンドルを握る手が力んでいる。

「有利ってのは違うよ。それは君が気にすることじゃないし、というか、私みたいな人間を不利って言ってることになる。高卒のシンママで、世間的にはそう思われてるかもしれないけど、自分が負け組だとかは全然思わないよ。君もそうでしょ、世間的には有利って言われるかもしれないけど、白黒つけられるのは君の中でだけだよ」

たしかにぼくの悩みは傲慢で、それ自体偏見に染まりきっている。
自分にだけ翼が与えられていると、わざとらしく嘆くようなものだ。
しかし、だからといって、ぼくに開き直れというのだろうか?

「あ、もうそこだね。なんか好きに言っちゃってごめんね。君は君だよ。だぶんね、全員に認めてもらおうって風に考えない方がいいよ」

その言葉で彼女が何を伝えたいのか、ぼくはうまく理解できなかった。
初対面の人に見透かされるほど、ぼくは常に承認欲求を垂れ流しているのだろうか。

駅のロータリーに車を止め、女性は後部座席のバッグに手を伸ばした。
「お金ないよね、これで帰れる?」
差し出された千円札に、自分がまだ子どもの側なのだと思い知らされる。
警察に借りられるはずだからと断るが、「これを受け取ったら、帰らなきゃいけなくなるでしょ」と言って、ぼくのポケットに押し込んでくる。
快活な笑顔で手を振る彼女に十分な感謝も伝えられないまま、軽自動車は全霊を込めたようなエンジン音をたてて去って行った。

あらゆる点で、ぼくは至っていなかった。
身の程を知らないまま、ぼくは非現実的な自立を夢想していたに過ぎなかった。
ロータリーの時計は8時を指している。
十分、明日からまた日常に戻れる時間だった。
ぼくは白旗をあげ、コインロッカーから荷物を引き上げた。


[連載小説]像に溺れる

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