#77 浮動――像に溺れる

川沿いの国道を西に進むと、まもなく路肩の狭い一本道になっていく。
両側には森が壁のようにそびえ、民家が道路と森の隙間を縫うようにぽつぽつと佇んでいる。

時間の流れから外れてしまったみたいに、代わり映えのない風景が続く。
少し新しい木材の処理場があって、普段見飽きた人工物の灰色が、なにやら新鮮に思えるようでもあった。
コンクリートの無機的な硬質さは、正確に刻まれる時間の土台に適しているようなのだった。

ぼくはガードレールを跨ぎ、川原に降りていった。
浅く狭い川は水量のわりに流れが速いらしく、小さな水泡が軽快に揺れながら滑るように進んでいく。

ベルトコンベアと川の流れが異なるのは、どのような点においてだろう。
他律的か、自律的か?
水面の動きの捉えがたさは、ヤナガワサンの縛られない精神に似ている気がした。

道に戻って少し進むと、かまぼこ工場やら酒蔵やらが見えてきて、だいぶ景色が開けてくる。
工場の駐車場には観光バスが停まっていて、老人のグループがガイドに従い建物のなかに吸い込まれていった。

胸の内側が低い温度で燻されているような、不快な感じがあった。
自分は違う、という思いが先を尖らせ、何かの膜を突き破ろうとしているのだが、膜はぶ厚く一向に破れそうにない。

集団。群れ。大きな意思。世間の声。親。
どこかですでに、帰らなければ、と思ってしまっている。
いや、いつでも帰ることができると、タカをくくってしまっている。

ヤナガワサンの退学に比べて、ぼくの家出は明らかに偽物だった。
山に囲まれた知らない街で、何者でもない存在として、この身ひとつで生きていくことはできないだろうか。
型どおりにしか生きられないと思われるのは、何よりいやだった。

国道にはいつのまにか、何の変哲もないロードサイド型の風景が広がっている。
ファミレスにドラッグストア、ガソリンスタンドにカラオケ、ファーストフード……
それらの見慣れた看板は、ぼくらに何かを約束している。
それらはぼくらの、快楽やら満足やらの相場を定めている。
大きな意思はベルトコンベアとなってぼくらを運び、餌付けし、労働に向かわせ、シャワーを浴びせ、娯楽に興じさせる。
もしかすると、それがもっとも効率的に、一番多くの人から、一番大きな満足を引き出せる方法なのかもしれない。
大人になることは、ベルトコンベアの形に体を馴染ませることを意味するのだろうか?

車道の青看板に温泉街の表示があった。
観光地に行っても、結局ベルトコンベアの軌道からは外れられない気がしたけれど、何だか家出中に温泉に入るというのが魅力的に思えた。

温泉街に着くころには、すでに日が暮れはじめていた。
5時間近く歩いたけれども、目的地の存在は不思議と道中の気分を充溢させた。
なにより、人のまなざしから自由なのがよかった。
それは一種の盗みに似ていて、地を踏み進めるたび生じる領土獲得の感覚が、ぼくの気分を高揚させつづけていた。

目に映る光景はすべて自分のものとして切り取られ、どうやら所有することは、まなざしのうちに捉えることと密接に関わっているようなのだった。
都会のビルは常に多数のまなざしによって所有され、それは教室にいる時のぼくも同じで、見られた者はいくつもの像のうちに拡散していく。
しかしそれなら、どうしてヤナガワサンは、像としてぼくのうちに所有されてはいないのだろう。

海辺でヤナガワサンの写真を撮ったことを思い出し、ポケットに手を伸ばすが、スマホはコインロッカーに置いてきたのだった。
夕日を背にしたその表情を、ぼくは何度見返しても読み取ることができないでいた。
それは見る度ぼくの感情を喚起しては、湧き上がった感情の裏へとその意味を隠してしまう。

対象をまなざすことで、かえってその虜になる、そういう逆転現象があるのだろうか?
不安定な足場からでは、自分が見ているものに、いつの間にか飲み込まれてしまうこともあるのかもしれない。
自律的な精神を獲得することなしには、きっとぼくはいつまでも、自分の像と他人の像との間で浮動しつづけるしかないのだ。
ひとりで生きられる自信がほしかった。
しかしそれすら、ヤナガワサンの像に惑わされた焦燥にすぎないのだろうか?


[連載小説]像に溺れる

第1
第2
第3
 ANOTHER STORY —ヤナガワ—
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