#83 二種類の進化――像に溺れる【ANOTHER STORY —ヤナガワ—2】

「ルールはひとつだ。過去の話はしないこと」
私をここに連れてきた日、ヨネザワは骨張った人差し指を立ててそう言った。
それは私にとっても都合のいいルールだった。
人に話したい過去などありはしなかった。
何かを思い出す機能すら、なくしてしまって構わないのだ。

過去の話の代わりに、ヨネザワはしばしば未来について語った。
普段はビール一缶の晩酌が焼酎に変わる日は、ヨネザワが酔いに任せて語る日で、同時に次の日が休みの合図でもあった。
それはいつもオカルトじみていたけれども、不思議と興味をそそられるものが多かった。
カイドリも毎回、その話をするヨネザワには熱心な視線を送った。
普段は聞こえていないようなのに、ヨネザワの話だけははっきり理解しているように見えて、ヨネザワが何かテレパシー的なものを発しているみたいに映る。
焼酎のグラスを半分ほど空けたあと、今日は「人類はこれから二つの種に進化する」とか言い始める。

一切を否定する者たちと、一切を肯定する者たち。

否定する者たちは、自分の生存の意味も、他人の価値も、社会の常識や制度も、何一つ受け入れることがない。
肯定する者たちは、社会の歪みも、他人の汚点も、自らの悪癖もあるがままに受け入れる。

彼らは相反する性質を持っているようで、どちらも自分自身から逃避している点で共通しているのだが、彼ら自身がそれに気づくことはない。
否定する者は肯定する者を思考停止した無能と否定し、とはいえ否定する自分自身も受け入れてはいない。
肯定する者は否定する者の拗くれた根性をそのままに受け入れ、受け入れる自分を肯定している。
互いが互いを否定あるいは肯定することで、それぞれ自分自身の揺るぎない立場を確かめながら、互いの領分に引きこもる。

ところで社会的な正しさは、いつも肯定する者たちのもとにある。
善意に満ちた笑みを浮かべ、彼らは相互理解にもとづく連帯を口にする。
けれども否定する者にとって、相互理解という言葉はそもそも理解の及ぶところにないのであって、そんなものは幻想だ、偽善だといって例のごとく否定する。
実際のところ肯定する者たちも、相互理解が一体なんであるのか理解しているわけではないのだが、ともあれそれが何か心地のよいことでありそうなことは直感しているし、何より信じてもいる。
結局のところ問題は信仰にあって、相互理解の善性を信じ、また己の善性を信じている肯定する者たちと、相互理解の善性を疑い、しかしそもそも疑っている自分自身についても疑っている否定する者たちとでは、遂行力に雲泥の差が生じることになる。

否定する者は自らの子をなさず、互いに争うばかりであるので、少しずつ数は減っていく。
けれども肯定する者の間からもまた、否定する者は生まれてくるのであって、その血はそうそう絶えることがない。

最後の否定する者を、肯定する者たちが抱擁によって窒息させると同時に、歴史の幕は下ろされる。
もしかするとそれまでに、新たな人間、「なぜ」と問うことをやめない人間が現われるかもしれず、彼を窒息させないことだけが、歴史を存続させる唯一の方法なのである。

こういう話をヨネザワは酔うたび繰り返した。
それらは大体、世界の終わりについての話で、設定も背景もあやふやなまま、不安を煽る抽象画みたいに提示される。
私たちは意見するでも反論するでもなく、ヨネザワの言葉をただ聞いているだけだ。

寝る前に決まってその話は頭のなかで反芻された。
私は否定する側だろうか。
けれども、この現状を受け入れている時点で肯定する側であるようにも感じる。
私はまだ進化の途上の、半端な存在なのかもしれない。


[連載小説]像に溺れる

 

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