一人称を選ぶことで削ぎ落とされるもの

さて、日本語はきわめて多様な一人称をもつ言語である。その習得を通じて、私たちは自身の発達段階や、身を置く状況をふまえ、おのずと適切な人称を選ぶよう訓育されていく。一人称の選択には「自分を世界のうちにどう位置づけるか」という自意識が表れるのであって、それは言いかえれば社会化の過程における最初の自己規定なのである。

ところがどの一人称を使うにしても、私たちはなにやら収まりの悪さのようなものを感じてはいないか。「ぼく」といってへりくだる自分に対しても、「おれ」といって尊大になる自分に対しても、うっすらとした気持ちの悪さを感じるのである。一人称と「本来の自分」は、いつも少しずつズレている。

フランスの批評家モーリス・ブランショは、このような語の選択にともなうある種の不気味さを、言語そのものの暴力性として規定する。象徴的な一節を引用しよう。

「私が『この女』と名指す際には、何らかの面で彼女から肉と骨でできた現実を奪い取り、彼女を不在にし、彼女を無化することになる。言葉は私に存在を与えるのだが、いわば存在を奪われた状態の存在を与えるのである」
――(Maurice Blanchot, «La littérature et la droit à la mort», La part du feu, Paris, Gallimard, 1949, p.312)

ここで言われているのは次のことである。目の前にいる女性を「この女」と指し示した瞬間に、その女性に本質的に備わっていたはずの要素は抜け落ちてしまう。この際、呼称が「この女」ではなく、「彼女」でも「あのお方」でも、その人の存在をどこかしら捉え損ねてしまうことに変わりはない。

すなわち、ある存在を言葉へと還元する際には、必然的にその存在に属していた何らかの要素を排除することになる。言葉はその存在のある要素を浮かび上がらせると同時に、別の要素を否定するのである。

同様に、私たちは一人称を選ぶことによって、そこに還元されない自身のキャラクターや属性を圧殺することになる。自身のことを「私」と称した瞬間に、たとえば大人に庇護される存在としての「ぼく」や、万能感に浸る存在としての「おれ」は消滅し、あらゆる要素は社会的に陶冶された存在としての「私」のなかに押し込められていく。

これはすなわち、一人称の選択が、同時に「世界との接し方」の選択であり、それ以外の接し方=モードを否定することを意味している。その選択は必然的に、自身の属する社会のなかで、自分がどのようにありうるかを表明することになるだろう。

たとえば「ウチ」という一人称は、「外」と対比されるところの「内面」であって、そうした「心の内」を無防備に露出させうる関係において用いられるものだ。一人称として「ウチ」が選択されるとき、そこに「外部の存在=自身とコンテクストを共有していない誰か」は想定されていないのであって、そこが混雑した電車のなかであろうが、「見知らぬ他人に見られるものとしての自己」は圧殺されている。

翻って、「あーし」はどうだろうか。これはもちろん、「私」のくだけた表現であるから、「私」において取り逃されてしまう何らかの要素を取り戻そうとする運動を見なければならないだろう。

社会化のプロセスを拒む「あーし」

「私」という一人称が選ばれるとき、そこにはおのずと社会的存在として自己を規定する精神の動きがある。どのような相手に対しても、提示することのできる自分の顔。自己に含まれるさまざまな要素のうち、「相手によっては理解を得られないであろう側面」を削ぎ落とした自己がそこにある。「私」とは言うなれば、自身の多様な顔から共有可能なペルソナのみを抽出した最大公約数としての自己なのである。

「あーし」が拒んでいるのは、こうした社会的存在としての自己であり、もっと言えばその公約数を導き出すためのプロセスである。できる限り多くの相手に受け入れてもらうには、自分のどの顔を差し出せばよいか。その取捨選択が面倒なのだ。

言いかえれば、「あーし」は自己の統合や構築を断念する一人称である。しかし、社会的存在としての「私」をみずから放棄することによって、彼女たちが死守しようとしているものは何なのだろう。

自己を何者かとして位置づけることは、そうでない者との境界を設けることを意味する。その境界によって、他者との差異が浮き彫りになる。この点で、「私」を放棄した「あーし」は、何者になることも拒みながら、他者との境界を曖昧なままに留める。

それによって守られるのはおそらく、現前する他者の生身の感触である。言いかえれば、学校やら雇用やらといった社会制度に媒介されることで失われてしまうところの、「近さ」のようなものだ。「私」と口にした瞬間に自他の間に立ち現れる無機質なフィルターを、彼女らは無意識に拒んでいたのではないかと思う。

これは当然、危険な選択である。私たちは「私」となることで、社会的振る舞いのテンプレートを手に入れる。互いに「私」を名乗ることで用意されるリングとルールを、「あーし」はむざむざ放り投げてしまうわけである。

そういう意味で、彼女らはひどく無防備である。制度に対して脆弱な存在と言ってもいい。しかし彼女らはいつも生身の人間として私の前に現れ、「そういうものか」の砂浜に私の心を連れ戻してくれる。ともあれ私は、それを懐かしいと思う。

余談だが、私の知るかぎり、30代後半になった彼女たちの一人称は「私」になっている。その変化がどのタイミングで、どのように生じたのか、私は知らない。とはいえ相変わらず、会ったときにはチューニングの作業は必要ない。それが同郷だからなのか、「あーし」の心性が彼女らに残されているからなのか、私にはわからない。それはどうでもいいことであり、ただただそういうものなのである。

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