私がコミュ障なのはどう考えても守護霊が悪い――エートスと人の宿命について

Educational Loungeで2年にわたり連載した小説「像に溺れる」作者でフリーライターの鹿間羊市さんが、日常の体験をもとに様々なことを考察していく月間コラム。
今回は日常でふと感じる「宿命」をめぐって思考が展開します。

鹿間 羊市(しかま よういち)
東京都多摩市出身。凡庸なエリートとしての道を歩むなか、ニーチェとの出会いが躓きの石となり、高校留年・大学中退と道を踏み外す。ハイデガー、レヴィナスの思想に傾倒し、現在はフリーの執筆家として活動中。衝動や受動性をテーマに、規定しえない自我の葛藤を描く。自身のnoteでも創作活動を行っている。Educational Loungeにて連載小説「像に溺れる」公開中(2022年10月完結)

生き方を間違えたな、と、ふと感じる瞬間がある。たいてい、自分が何かをしでかしたわけではなくて、誰かの健やかな人生のかたち、そういうものの断片を垣間見たとき、あぁ、自分にはこういう生き方はできないのだと、勝手に打ちのめされることがある。

最近では、近所のドラッグストアで買い物をしていたときのことだ。私の息子と同じ、2歳くらいの子を連れた夫婦が、先に会計を済ませ商品を袋に詰めている。ベビーカーに乗ったその子は、なにやらアンパンマンのゼリーみたいなものを手に持って、今食べたいと訴えている。母親はわが子の無邪気さに「ふふっ」と声に出して微笑み、父親は子を嗜めようと優しい声で「おうちに帰って、ちめたいちめたい(冷たい冷たい)してから食べようね」と語りかける。その光景に、私は例によって打ちのめされたわけである。

私には、どうしてもああいう声が出せない。「ちめたいちめたいする」という、幼い子に言い聞かせるための語彙も持っていない。会話が苦手な私は、子に言い聞かせようとするときですら何度も言い淀み、噛みまくりながらどうにか言葉を発している。感情に駆られてぶっきらぼうな話し方をすることもある。同じ父親なのに、この違いは何なのだろう。なんであれ確信できるのは、絶対にあちらの方が「正解」だということである。

しばらく「自分はどこで間違えたのか」と、諦念のような自責のような、なにやらスカスカの骨みたいに粗末な気分になって、しかしこれは詰めて考えてみても甲斐のない類いの問題だと、まもなく自省は風化していく。私は知らずそのような環境に育ってしまい、さらにその生育過程における欠如をみずからの力で補おうとする努力をしてこなかった、というだけの話だ。それはいわば、私のエートスなのである。

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