『ハンチバック』において救済とはなにか

『ハンチバック』は読者のうちに、上のような引力を生じさせる作品である。しかし一方で、そのような引力に読者が身を委ね、安易な悔恨や同情に浸ることを許さない作品でもある。私たちはこの作品によって、これまで自身が見過ごしてきたものへと意識を立ち戻らせながら、同時に金縛りに遭ったかのように身動きがとれなくなってしまう。

いささか突飛な話だが、このような「作品の圧」は、同作の神的なものに対する態度に由来しているように思われる。それは具体的には、「中絶するための妊娠」を望む釈華の、生命倫理の歪みに象徴される。あらゆる命を祝福すべきものと見なし、そこに肯定的な意味を見出そうとする「善良な」倫理観に対して、『ハンチバック』は鉛球のような疑義を投げつけてくるのである。

さて、『ハンチバック』のクライマックスには旧約聖書が引かれ、これはエゼキエル書において「その後の救済=イスラエルの再興」を予感させるシーンである。しかし、主人公の釈華は明らかに神に与する立場の人間ではなく、それゆえ聖書の引用も単純な「救済イメージの提示」のためになされたものではないだろう。自身の身体を「設計図を間違えている」表現することに、この世の存在者を神の被造物とみる世界観へのアンチテーゼを読みとれるし、そもそも胎児を孕み、殺すことを夢見る人物が、自身を神の秩序の一員と見なすはずもない。

そうであるから、聖書の引用に続く場面で提示されるのは、きわめて捻れた救済のイメージである。それは主人公から視点を移した風俗嬢の物語であって、ちょうどその立場が本編部分における主人公の「高級娼婦になりたい」という願望と重なることから、このエピローグは一種の反実仮想における「釈華の救済された姿」であると解釈できる。

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エゼキエル書の引用によって、ありえたかもしれない可能性を希求する崇高なトーンを形成しながら、その後に続くのは「馬鹿なシングルマザーになって貧困再生産しないように」と客から見下される風俗嬢視点のエピソードなのである。この点に、「障害者の救済」をめぐる我々の安直なイメージを強烈にはねつける構えが見てとれる。

同様のことは、教育環境の整っていないかつての同級生たちを思い返し、「あの子たちのレベルでいい」と語る主人公の態度にも表れている。ここに表現されているのは、卑下される対象の人々の暮らしぶりすら渇望する「障害者の健気さ」などではない。障害者に対して私たちが送るステレオタイプに満ちたまなざしに対して、同種のステレオタイプを投げ返してくるスタンスであり、私たちが障害者に「ないもの」と決めつけている「対象化のまなざし」である。

さらにこうした構えはおそらく、中絶の願望とも通底するものだ。出生において障害者を「間引く」ことを肯定するのであれば、障害者が胎児を殺すために妊娠することもまた肯定されるはずであり、「それでやっとバランスが取れない?」という平等観。ここで求められているのは、誰もが出生において殺されうる社会である。これを敷衍すれば「どうしようもない生得の領域において、誰もが否定されうる社会」であり、つまるところ誰もが差別の対象となりうる世界、誰もが軽んじられ、排除され、見過ごされうる世界である。私たちが障害者に対してどのように関わっているのかを考えれば、そうでなければ釣り合いがとれないわけである。

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「後ろ髪を引かれた私たちは」

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