後ろ髪を引かれた私たちは

最後に、『ハンチバック』におけるエゼキエル書の引用箇所は、神がゴグとの戦いを通じてみずからの威光を示そうとするシーンである。これは退廃したイスラエルを「リセット」する装置としてエゼキエル書に組み込まれており、このあとには壊滅状態となったイスラエルを神が再興するビジョンが語られる。ベンヤミン的な救済イメージからすれば、ここで取り戻されるはずの可能性は、バビロン捕囚によって失われた「祖国での暮らし」であって、神の膝元で人々が安らかに暮らす姿が呼び起こされるかもしれない。

一方、『ハンチバック』は私たちを次のような反実仮想へと解き放つ。それはすなわち、誰もが重度障害者であり、誰もが風俗嬢であり、誰もが胎児の段階で殺される、そのような可能世界である。釈華は「せむしの小人」として、あるいは「ゴグ」として、私たちが忘却した罪を告げ知らせ、そのような世界のうちに私たちを投げ入れる。

これにより、私たちのうちには「かすかなメシア的な力」が宿るだろうか。そしてその力は、私たちの現実における構えを少しでも変えてくれるだろうか。

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