私たちは「あってはならない欲望」を押し殺す

フロイト派の精神分析家であれば、このような行動を防衛機制によって引き起こされたものと捉えるのかもしれない。人間は無意識のうちにさまざまな欲望を抱えるが、生育過程を通じて自分のなかに構築された監視装置が「あってはならない欲望」を抑圧し、それが意識に上ってくることを禁じる。しかし当然、欲望を否認することは、私たちの心にとって大きなストレスになる。その受け入れがたさを軽減するために機能するのが防衛機制であり、要するに「その欲望が達成されないことを自分に納得させるためのメカニズム」が作動するわけだ。

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もちろん欲望の不可能性について受け入れたからといって、その欲望がすっかり解消されるわけではない。フロイトは神経症の研究を続けるなかで、このような無意識下における欲望の抑圧が、さまざまな精神疾患を引き起こすことを発見したのだった。抑圧された欲望は、心になにかしらの歪みを生じさせ、思いも寄らない症状として表出する――「抑圧されたものの回帰」と呼ばれる現象である。

このような欲望の否定、およびその不可能性の受容は、精神疾患の有無にかかわらず、誰もが無意識下でおこなっていることだ。私が最近気づかされたのは、友人から「なぜファッションに無頓着なのか」と聞かれたときだ。もちろん私だって、若い頃は雑誌を眺めたり、代官山やら表参道やらの店を覗いてみたりすることに楽しみを感じないわけではなかった。けれども知らないうちに、そういうことはしなくなり、今では半年に一度アウトレットのセール品をいくつか買っておしまいになっている。

これは本当に、私にとって「知らないうちにそうなった」という類いのなりゆきで、その過程にどのような心理が働いていたのかを見定めるのは難しい。たぶん、一度興味を抱いてしまえば、そこから際限のない楽しみが拓かれてしまうことが明らかなので、無意識に「イケてる服を着たい」という欲望を圧殺してしまったのだと思う。

重要なのは、この圧殺が生じるとともに、欲望の不可能性に対する合理化がはじまっていったことである。私は服にこだわる人間に対して、なんとなく鼻持ちならないような思いを抱くことがある。これはおそらく、私の隠れた欲望を達成している他者を否定することで、自身の欲望の不可能性を正当化する精神の働きにほかならないのだろう。「服にこだわる人間にはろくなヤツがいない」と考えることで、「服にこだわらない自分」を合理化しているわけである。

本当に服に対して無頓着であれば、着飾っている人を目にしても何も思わないはずだろう。欲望を抑えつけているからこそ、私たちは上のような「言い訳」を必要とする。しかし抑圧された欲望は、そのような言い訳によって完全に成仏することはなく、どこかモヤモヤとした不快感として回帰してくるわけである。

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「ビールはたぶん毎日飲んでもうまい」

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