ところで江藤の提示する構図においては、「子を庇護下に置いておきたい気持ち」と、「子に出世してほしい気持ち」が相反するものとして捉えられていた。これは子の立場に置き換えても同様であり、子のうちには「甘え」と「自立」をめぐる葛藤が生じることになる。

一方、「像に溺れる」の主人公にあって、「甘え」と世間的な意味での「自立」は対立するものではない。むしろ、「自立=社会的成功」を収めるには「母への甘え」が強力なファクターとなる。この閉塞感、すなわち主体性の介在する余地のなさに、彼は漠たる拒絶感を抱きつづけている。

ひるがえって、これを江藤によって提示された母性の視点から捉えるのなら、上の状況は「子を庇護下におきたい」という欲求と、「子に出世してほしい」という願望、いずれをも満たしているように思われる。わが子の意思は自身の想像の範疇を超えず、しかも社会的に承認されるルートに乗っている。すなわち「像に溺れる」において(あるいは筆者の経験世界において)、アンビバレンスは奇妙な形で解決されてしまっているのだ。これは一体、どういうことなのだろう。

『海辺の光景』の時代と、現在の社会的文脈の差に着目してみよう。当時の文脈に含まれておらず、かつその後社会的トーンの規定要因となった出来事として、学生運動の敗北や冷戦体制の終了、バブルの崩壊から続く経済停滞等々を数えることができる。これらはいずれも、私たちのニヒリズムを構造的に産出しつづけてきたものだ。

ニーチェによれば、ニヒリズムとは「最高諸価値の価値喪失」であり、これは言い換えれば「それまで目指されていたものが、目標や理念としての立ち位置を失ってしまうこと」である。上の文脈に置き換えれば、八紘一宇や大東亜共栄圏といった理念も、革命による理想社会の実現も、共産主義の夢も、さらには経済的成功も、もはや個人が目標として引き受けることがかなわなくなった事態を指すといってよい。

90年代のなかば、こうした閉塞感を見事に言い表したのが、宮台真司の「終わりなき日常」という概念である。夢も希望もない世界で、私たちは漫然とつづくこの日常を「まぁ、こんなものか」と肯定しつづけなければならない――そうでなければ、私たちの自己は行き場をなくし、カルト宗教のような「救い」に身を染めることにもなるだろう(念のため補足すると、「終わりなき日常」という概念は、オウム真理教の成立背景に対する分析をつうじて、それへの「処方箋」として提示されたものである)。

この「終わりなき日常」は、私たちの日常を破壊した東日本大震災や、新型コロナウイルス感染症の拡大を経たあとも、依然としてこの社会の基本的なムードでありつづけている。絆、連帯、ワンチーム、新しい日常。共同の理念として掲げられる言葉はことごとく上滑りして、時間とともに大いなる日常のうちへと回収されていった。我々の現状肯定の力、ときに目の前の現実を歪めてでも「いま」を維持しようとする力に、一切が飲み込まれていくかのようである。

私たちのこの現状を維持しようとする力は、おそろしく強大で、しかも卑しい能力である。腐敗したシステムにおいて搾取されている状況だろうが、すぐ背後に戦火が迫っている状況だろうが、私たちはそれを愛して失うまいとするのだから。

ともあれ、我々はバブルの崩壊以降、社会的に共有される理念を失いながらも、いま目の前にある現状を肯定しつづけてきた。何のためにかはわからないが、ともかくこの生活を繰り延べていかなければならない――目的意識が空洞化した義務感に、私たちは駆られつづけている。

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